第201号 2019.2.28発行 | ||
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テーマ: 『 私の歩んできた道 』
1月度の産業懇談会では、4グループ合同で、須藤筆頭代表幹事をお招きし、恒例の代表幹事講話をいただいた。要旨は以下のとおり。
また墨田区は歴史的エピソードの舞台も多い。まずは、平安初期、絶世のイケメン在原業平の東下りにちなんだ「業平橋」と「言問橋(ことといばし)」。言問橋は、隅田川に到着した業平が詠んだ句「名にし負わば いざこと問はむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」に由来する。「都の名を持つほどの鳥であれば、京に残した思い人が息災かどうか教えて欲しい」、という句だ。また、同じく平安末期に創建された隅田川神社。源頼朝が関東下向時に創建したと伝えられる。今でこそこのあたりは内陸となっているが、当時は隅田川の落ち口(終点)であり、鐘ヶ淵は入り江の戸口であった。これが「江戸」の語源となったそうだ。 ■榎本武揚のおかげで気管支喘息に!? ■徹夜で挽回した新入社員時代 ■言い出しっぺでアメリカ赴任 |
テーマ: 『 住友商事グループのサステナビリティ推進及び環境への取組み 』
<冒頭ご挨拶〜犬伏氏より〜> <中西正治氏 講話> ■今こそ攻めのサステナビリティを ■住友商事における事例紹介(抜粋)
以上 |
テーマ: 『 名古屋妖怪街道と落ち延び街道 』
<ご略歴> ■地獄の人生と芸術 ■落ち延び街道は妖怪街道だ! ※事務局注 |
テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第94回 』
料亭つたも主人 自由民権運動と秋琴楼事件 昭和41年4月東海高校3年の深田正雄君はD組長谷川昇教諭担任のクラスに入りました。当時、少年サンデー・人気漫画「お化けのQ太郎」とそっくりで、あだ名は“お化け”、早稲田大学卒の文学士で日本史の先生、映画が大好き!学校をサボって映画館に入り浸りの友人が見つかり、“お化け“のお咎めと思ったら「T君、不登校で映画館に入りびたりか・・・高校で下らん授業聞くよりよっぽどましだ!だが、事前に休みを報告すること(卒業のため出席扱いすると思われます)、そして、面白い映画を見たら感想を先生に聞かせてくれ???諸君、活動写真はいいぞ!!俺も学生時代は年間200本くらいはみたぞ」と、豪語する物分かりのよい先生。日本史の授業は、ご研究テーマの名古屋地区の自由民権運動とヤクザのお話しばかりで感動の連続・・・正雄君は大の歴史好きとなり、「住吉の語り部」の元凶?となりました。
栄ミナミに関する印象的な2つの「お化け」の語るエピソードをご紹介しましょう。 板垣退助遭難事件:明治15年(1882年)大隈重信総理は「立憲改進党」を組織し、国民の政治的関心が大いに高まり発足した国会期成同盟への活動において、「自由党」と覇権を争っていました。対する自由党総理・板垣は勢力の強い三河から愛知自由党・愛国交親社メンバーを核に、東海道遊説の旅を同年3月に開始いたしました。3月27日名古屋に入り、29日午前は大須大光院で、午後は門前町博物館で決起集会、イベントは「撃剣興行」のチャンバラショーで人集め。各地で興行して4月6日には桜花爛漫の岐阜・金華山麓で大演説会、旅館への帰途、待ち伏せていた壮漢に襲われ胸と手にかなりの傷を負いました。その時、流血の板垣総理が刺客を睨みつけ「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ有名な「板垣総理岐阜遭難」の一幕・・・そして、同行の内藤魯一が堀川沿い(現栄1丁目)愛知県病院院長・後藤新平の来診を仰いで一命をとりとめたとのお話! 長谷川先生曰く「治療で板垣は元気になったが、代わりに自由党の民権運動は死んだ!!」生徒は爆笑で大喜びの講義でした。 もう一つは「秋琴楼事件」。栄広小路と南呉服町の交差点に明治屋がありますが、その場所は明治時代には「秋琴楼」という名古屋でナンバーワンといわれた一流旅館がありました。明治15年板垣事件のとき、退助も常宿として泊まっていましたが、翌年の明治16年(1883)自由党と立憲改進党が衝突。「秋琴楼」を舞台に政治抗争が勃発しました。 愛知県で勢力をもつ自由党に対し、進出を企てる立憲改進党は、尾崎行雄らをはじめ弁士を東京より派遣、若宮八幡宮の敷地内にあった末広座で大演説会を開催しました。会場は足の踏み場もないほどの超満員。しかし、会場内では自由党の内藤魯一がこっそり指揮をとり、演説会を中止させようと手ぐすねひいて待ちかまえていたのです。 尾崎行雄が舞台に上がり、自由党を弾劾する演説を始めた時、内藤が合図をすると、多数の自由党員が舞台に押し寄せ、会場は大混乱となり、演説会は中止となりました。 これだけでは終わらず、翌日、秘密裡に立憲改進党の党員だけが集まり、旅館・秋琴楼で有志懇談会を開くことにしておりました。これを知った自由党員は夜、秋琴楼になだれ込み、汚物を詰めた酒樽を、会場の大広間に投げつけます。名旅館の掃除の行きとどいた広間は、異様な臭気を放ち汚物がまき散らされ無残な様子。これが「秋琴楼事件」です。 長谷川先生が語るに「酒樽に木桶で、糞瓶(クソガメ)から糞尿を汲んだ!住吉の各町家には井戸と糞瓶が設備され、特に下肥として近隣の農家に配送する仕組みが素晴らしいゴミゼロ環境循環社会を形成していた。」とのこと。幕末から明治に至る、政治問題から汲み取り・生活文化史まで興味深くお話しされていました。一般的な暗記もの歴史には触れず、ユニークな切り口で生徒の向学心を高揚させた名伯楽ともいえます。 明治10年代の愛知自由党の組織率は非常に高く尾張各郡では50%を超える地域も多かったようです。また、演説会などの会合には新政府となり廃刀令後、失業した剣術の師を中心に大相撲をまねて「撃剣興行」という武術ショーで集客、その後、剣道が存続するキッカケとなったともいわれています。 自由党といえば弁士・川上音二郎が有名です。その頃、川上音二郎は慶應義塾の学僕(雑用を手伝いながら勉強する生徒)・福沢諭吉の書生でしたが、しかし長続きせず、反政府の自由党の壮士となったようです。明治16年に立憲帝政党員登録し、その後、世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、明治27・28年の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となりました。 『オッペケペー節』のネタとして、板垣・秋琴楼事件は格好のテーマで、撃剣に代わる余興となったようです。音二郎の死後、妻・川上貞奴が諭吉の養子・福沢桃介と二葉館を中心に名古屋財界で活躍したご縁がつながってきます。実は、正雄の祖父・深田良矩は桃介一党の新会社設立新株引受の仕事に携わり、販売促進の接待場として大正2年に「蔦茂旅館」を購入したのが家業の始まりです。 その後、秋琴楼は旅館千秋楼と店名を変えて、河文の番頭・杉浦さんが経営しておりましたが火事で焼失しました。そして、大正14年に杉浦ファミリーは八勝館の支配人・管理者として迎えられ現在3代目杉浦典男氏に至っています。八事地区の開発にともない八勝館は、名古屋の材木商だった柴田孫助が、明治初期に八事に別荘を建てたことに始まります。 南呉服町と広小路角の跡地は、昭和13年に明治屋がビルを建設し、戦後曳家移転工法で東に移動したレトロな建物ですが、2014年5月に閉店しました。現在の所有者のダイテックのグループ会社は隣接する旧丸善名古屋ビル(現在コインパーキング)と合わせた敷地面積約3千平方メートルを使い、商業とマンションの複合施設を建設する構想を打ち出し、早ければ2015年にも着工するはずでしたが、明治屋ビルのテナントとの退去調整が難航しているようです。丸栄の再開発も遅々として進まず、広小路本通一帯のにぎわいづくりは暗雲が立ち込めて開発の遅れが気になります。 また、明治42年の地図には西隣に「山田旅館」がありましたが、その後、大正2年に焼失してしまいました。息子の山田光成氏(明治40年生まれ、自宅はラシック南あたり)が慶応高等部卒業後、父の残した他の土地を売り「山田モト旅館」として23歳の時に再オープン、実家の経営再建。戦時中は下呂温泉で旅館を取得、誘客のために後払い月賦の仕組みをスタートして、クレジットビジネスの嚆矢といえます。1948年(昭和23年)41歳の時に、資本金40万円で、わが国初の割賦販売会社「日本百貨サービス株式会社(日本信販)」を設立し、現在は三菱UFJニコスとなっています。そして、1961年三和銀行と折半出資で「日本クレジットビューロー(JCB)」を設立されました。また、白壁の料亭桜明荘の維持運営に尽力され、岐阜美濃加茂市正眼寺のスポンサーとしても地域に貢献されました。私が米国より帰国し昭和56年頃ホテルオークラで開発担当をしているときに、祖父のご縁もあり本郷の日本信販本社にご挨拶に伺いました。お元気な山田翁はボクシング協会への思い入れを語られた後、「深田君、今世界一のリゾートといわれるハワイのカハラ・ヒルトンホテルを取得したいので、君の人脈で調査してくれ。」と依頼されました。残念ながら当時はヒルトンとの契約ががんじがらめで買収が難しい旨報告しました。晩年まで、宿屋の親父としての心意気を感じた次第です。山田翁は、城山三郎「風雲に乗る」のモデルとして有名です。享年79歳。 参考文献:『博徒と自由民権――名古屋事件始末記』長谷川昇著:中公新書、1977年 日本の歴史学者。大正11年横浜市生まれ、早稲田大学文学部卒業、東海高校教諭を経て東海学園女子短期大学教授を経て、名誉教授。専攻は近代日本史 『愛知千年企業』〈明治時代編第1部 明治前期/1883(明治16年)〉 北見昌朗著
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◆3/28(木)木曜グループにご参加いただく方には、詳細案内をお送りします。 |
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