テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第86回 』
料亭つたも主人
深田正雄(栄ミナミ地域活性化協議会)
終戦直後の栄地区の思い出・モージャー氏写真より
前回の「住吉の語り部となりたい」第85回でご紹介した、モージャー氏の日本滞在時の写真(1946年4月〜1947年1月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10756455)をFaceBookのお友達に知らせたところ、栄小学校の一年後輩で茨城県那珂市在住の橋本裕君から感動の返信をもらいました。
以下 ご本人のコメント引用
“我が家発見!!モージャー氏戦後写真コレクションの166番の写真、第5空軍(中部方面)司令部となった大和生命ビル正面を撮った写真、手前の空き地にジープが駐車しているもの。その横に「WATCH CLOCK」と横壁に書かれている家屋が我が家です!!
店の棟と住居の棟になって、その間はコンクリート打ちの通路。
大和生命ビル入口の正面でした。裏手は墓地で、長円寺。
時計・貴金属・眼鏡が本業ですが、司令部前という立地からか、龍や虎の大きな刺繍が入ったジャンパーから警棒・手錠・胸章・肩章なども取り扱っていました。
|
|
名古屋今池の東、仲田本通から、戦後すぐ栄二丁目に移って店舗を構えたと聞いていましたが、戦後1年ぐらいの早い時期だったと知りました。私はその3-4年後この地で生まれました。
「WATCH CLOCK」と横壁に書かれているのがかつての我が家・店舗 昭和21年秋9月頃?
S20年空襲で焼け出され、親父は終戦間際に召集され、小倉へ。終戦後すぐ除隊となって帰還。家族が疎開していた稲沢の実家にしばらくいてからこの地(岡谷鋼機所有)を借りて・・断片的な記憶を繋ぐと、こんなところか。
父は進駐軍を良客としていい商売をしたとは思います。各務原基地のPXにも品物を納入したのは覚えています。そんなに商才があってバリバリ稼ぐタイプではなく、どちらかといえば職人タイプ。このころ運がよかったのでは?(天候が良ければ小倉で原爆投下、被爆していたかもしれない。小倉⇒長崎)英語はまるでだめだったと思うので、母親の方が適当な英語で対応していたのか?
こんな早い時期に広小路、それも司令部前に店舗を開いたことの経緯はもう聞くことはできません。のち西側に喫茶・バー「ウスケボー」を開いていますが(S31-S35)、これもどんなきっかけがあったのでしょうか。こちらでは、バーテンダーからチェーカーの振り方、ダイスの振り方、ハンバーガーの作り方なども習いました。
店舗の角は煙草、はがき・切手、宝くじ販売。ここではよく店番をして、札の数え方を覚えました。
この1枚の写真を見ていると、いろいろなことを思い出し、懐かしく感じます。
腕時計分解修理・組立、柱時計の調整、眼鏡度数検査、宝石鑑定などの作業、父に連れられて刺繍加工屋、寿屋、専売公社、税理士事務所にいったこと、店のガスストーブで焼いて食べた干芋(角柱形で白い粉がふいた)、店先に来てくれた魚行商、スケートを習ったこと、丸善・明治屋・丸栄・中村百貨店、屋台(みたらし、ラーメン・ワンタン)などなど、溢れてきます。
ここが自分の原点。
終戦直後の広小路・本町交差点の状況を回想した、裕君の思い出のコメントに嬉しくなり、そのまま引用・原文のまま紹介させていただきました。
そして、懐かしいウスケボー、日本人が楽しめるカウンターバーの発祥の老舗です。最近まで経営者が代わったようですが、近くのビルで営業していた記憶があります。
名古屋駅前の大型バー「うすけぼー」はニッカウヰスキー直営アンテナショップと思われ、橋本さんとは直接の関連はないようです。
うすけぼー(Uisqebaughiウーシュクベーハ)とはケルト語で「生命(いのち)の水」という意味、つまりウィスキーの語源。
橋本さんの店の名前は:命の水、ウィスキーの語源、徳川夢声の命名。
マッチには夢声の似顔絵。「Torys」と字がはいった菱形ガラス小皿で「新道」で仕入れた「ピーナッツ」や「揚げソラマメ」をコーヒーのときも付けて出していました。7種のリキュールを比重の大きいものから順にグラスに注いで作る「レインボー」、ジンフィーズ、ハイボールの作り方の手ほどきをうけましたねぇー、小学生の時でしたが?仕入れはサントリーさんでした。
(橋本氏コメント)
終戦直後、名古屋ではアメリカ第25師団が連合国軍(進駐軍)として軍政を敷き、市内のビルなど約40ケ所が接収されました。また、名古屋城三の丸旧陸軍第3連隊兵営跡にキャッスルハイツとキャッスル野球場、広小路南に現在の栄2丁目に将校の家族専用住宅「アメリカ村」と占拠されていました。司令部の交通の要所の交差点に第5空軍司令部、本町通りと広小路通りは占領軍専用道路となっていました。そして、橋本時計店の西にはジープが8台駐車されており、馬車を含めて邦人の車両通行などはなかったようです。当分の間、本町通りは米軍ジープが砂煙を上げて闊歩し、日本人が恐れおののき、一本西の長者町筋が新しい繊維街として終戦後発展したと聞いています。
右下写真#205は、大和生命ビル西約100m・昭和22年正月の広小路通りの風景。北側、「賀正」の看板を掲げたシキシマの広小路サロンは最初の食堂、丸焼けとなった朝日神社の焼けた樹木・楠の大木も一年で緑を取り戻し、街の復興めざましく庶民は活気を取り戻しつつありました。左の白い建物はパチンコ広小路センターとして大いににぎわっておりました。すでに歩道が舗装され、電線も地中埋設されたようで電柱や電線が見当たりません。この後、柳の街路樹が歩道に植えられ、屋台が進出して「広ブラの原点」となったようです。
昭和34年住宅地図:北側左より・旧GHQ大和生命ビル、 家具・高麗屋、
広小路サロン、朝日神社 南側:バー・ウスケボー、時計・橋本商店 |
モージャー#205 広小路・昭和22年正月 |
また、進駐軍に接収され一階にPXのあった朝日新聞ビルの屋上から名駅南を眺望した写真#122。堀川の手前には戦災で焼失した東陽倉庫跡、江戸時代からの水路が入江町通りの由来と聞いています。当時は尾張藩の米蔵26倉がありましたが、明治6年に広小路より移転し三ツ蔵懲役場を開設、同11年には日本最初の監獄精神病室が設置され話題となりました。
レンガ造りであったため濃尾大震災で多くの建物が倒壊、12名が圧死、明治30年には愛知県監獄は吹上に移りました。昭和40年には若宮100m道路建設に伴い、名古屋刑務所として「みよし市ひばりヶ丘」に移転、現在は全国で4番目の規模といわれています。
その後、堀川の水運を活用した倉庫でしたが、戦後は米軍兵も楽しめる施設としてキャバレー名古屋温泉パレスやプール、テニスコート、ボーリング場、自動車運転練習場などとして活用されていました。現在は再開発が完成して「テラッセ納屋橋」となり新しい都市型ニュータウンモデルで話題となっています。
写真を見ると堀川に懸かる天王崎橋は、爆撃破壊後に急遽、木造で建設されたようです。米軍の規制か、堀川が水運として活用される前と思われ、舟も筏も見当たりません。 |
モージャー#122 真ん中には、堀川、中央の三蔵通り南には
焼け残った家屋、早くも再興された倉庫なども見受けられます。
|