テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第75回 』
料亭つたも主人
深田正雄(栄ミナミ地域活性化協議会)
金銀みつる長者町・・・下長者町の巻
明治期には、本町通が一流の問屋が店を構えるメインストリートならば、裏通りの長者町は二流の問屋街だった。杉の町通りの古着商から商売換えをした商人や伊藤次郎左衛門など呉服問屋の旧家でたたきあげられた番頭が独立した十数軒の問屋街ができ上がっていた。昭和十一年頃になって上長者町で九軒、下長者町で四十八軒の店が軒を並べた。戦後の繊維不足の流れに乗り、長者町にまたたく間に、問屋でうずまり、他の商売が入りこむ余地はなくなってしまった。戦前の倍以上の百数十軒の店が並ぶ全国有数の問屋街ができあがった。何人もの長者が住む町となった。名古屋開府以来、始めて文字通りの長者町となった。(沢井鈴一氏「名古屋の町探索紀行」より)
清須には富豪が集まり住んでいたところがあり、長者町と呼ばれていた。清須越し江戸時代の長者町は、大名が通る本町の裏通りとして、下級武士・荷役・商人・旅人が通るところであったとか??
同様に、第二次大戦後、本町通は、広小路角の徴兵館ビルが進駐軍第5空軍司令部になったことで、ジープが轟音を立てて通る道となり、跋扈する米兵に恐れをなして、通行する人もまれな道路となってしまいました。一本西の長者町通は、雨後のタケノコのように、薄利多売・現金売りの日本有数の繊維問屋街となりました。
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長者町繊維街の名物アーチ、
各ブロックに設置 |
しかし、糸ヘン景気が去り、長引く繊維不況と流通システムの変化から長者町繊維問屋街は危機に瀕しています。老朽化したビルと駐車場が半分以上を占めるゴーストタウンからの再生を懸けて、現在は新しい活気ある街づくりへ試行錯誤しながらチャレンジしております。
まずは錦2丁目の活性化のために、秋のえびす祭、あいちトリエンナーレ誘致など、いろいろなトライアルがされています。私が世話人の「名古屋の旧町名を復活させる会」とコラボして郷土の歴史を復活し、名古屋人が郷土に誇りを取り戻すことを目的に、町名復活を目的とした組織『長者町』を復活させる有志の会″が2013年末に立ち上がりました。
会長には八木兵(株)・山口兼市氏、副会長には吉田商事(株)吉田俊雄氏、綿常ホールディングス(株)・浅野隆司氏が就任、長者町復活へむけて活動開始!
(株)北見式賃金研究所・北見代表が「町名は郷土の誇り、長者町を復活させよう」B1版大型ポスターを作成して啓蒙活動を実施されました。
現在は、町名復活の活動が小休止していますが、また、再度「長者町」の名が復帰することを願い、今回は、ポスターから伝馬町筋から南の下長者町界隈の昭和34年地図を参考に思い出をお伝えしてまいります。
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町名は郷土の誇り『長者町』を復活させよう!大型ポスター、北見昌朗制作 |
昭和34年の下長者町・住宅地図
住宅地図協会が昭和35年に発行 |
当時、下長者町1-4丁目すべてが繊維関連のお店が軒をならべていましたが、現在、同じ場所にある長者町協同組合員企業はわずか6社となりました。1丁目北角の吉田商事(株)は吉田俊逸氏が愛知県葉栗郡木曽川町で呉服商を創業され、戦後いち早く昭和22年に現在地に移転、代々地域のリーダーとして活躍されています。私が昭和58年に(株)森島羅紗店を承継した際には、俊雄会長の兄上にナオリ健保組合の仕事など親切にご指導いただき感謝しております。神谷商店さんは創業の神谷茂雄さんの名で「神谷茂(株)」で婦人洋品卸、現在は駐車場となりましたが丹羽幸商店、初代丹羽幸一郎、明治41年に洋傘卸売商を開業、故丹羽吉輔氏、戦後は下長者町2丁目で再スタート、元会長幸彦さんと代々幅広く事業を展開されています。
個人的には、街づくりで「えびす祭」などに尽力し、河村たかし衆議院議員秘書から中区選出民主党から市会議員当選、その後、減税日本ナゴヤ市議団団長・則竹勅仁氏の活躍が思い出されます。吉田商事南の「則竹商店」の御曹司でえびす祭では、布と綿で作った「長者町山車」のお宿となっていました。則竹氏は2003年、「費用弁償受け取り拒否」を公約して初当選。2011年3月の市議選でも拒否の実績を選挙公報に明記して3選を果たしたが、2010年末に市が法務局に供託していた7年分536万円をまとめて受領していたことが発覚し辞職したのが残念です。家業の窮状から供託金を活用されたと思いますが、現在はコートオブアームスという洒落たアメリカンカジュアルレストランとなっています。
店舗ばかりの2丁目商店街に唯一の業態の違う、玄関に緑の植栽の見事な加藤歯科さんがありました。親父先生と祖父が親しく、幼稚園の頃からお世話になり、とっても痛い治療を施してもらった思い出が…。以来、正雄君は、どうも長者町を避けるようになり、住吉町の関谷歯科さんに主治医変更、お陰で歯痛から解放されたようです。
同じ場所で同じ業種で唯一現存するのは足立商店さん、そして、丸善さんは、手芸をされる方なら知らない人はいないというぐらい有名店として、現在も営業中。そして、ランドマークは創業明治10年の遠山産業(株)さんの焼け残ったレトロなビルでした。現在はコンビニとなり、周辺はコインパーキング街となりました。
遠山産業ビル 昭和10年建設
戦後道路拡幅で引きづり工法で移動が話題 |
遠山産業ビル跡地:
コンビニ「セブンイレブン」となりました。 |
明治4年八百屋町から名称が長者町3-4丁目となり、広小路北を中心に町名変更されたようです。4丁目東角は綿常さんが南の大同別珍さんの土地を取得され、繊維業からホテルドーミーインのオーナー、そして、近隣に多くの貸しビルを経営されています。西側の後藤銅器さんは創業100年の老舗、最近移転されたようで寂しく思っています。懐かしいのは「川瀬書店」さん、戦後、書籍の流通会社・東販や日販などが新しく誕生し、終戦直後は川瀬書店が名古屋一の取次だったと思います。本屋さんは川瀬、星野、丸善と広小路の3店が大手といえました。
錦2丁目まちづくり協議会会長をつとめる堀田勝彦さんの堀田商事ビルの北側駐車壁全面に描かれた現代アートの作品は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2010」で作られたものです。ナウィン・ラワンチャイクン(タイ)の制作・幅11m「新生の地」です。この作品には長者町に縁のある色んな時代の町の人が描かれています。勝彦さんに登場人物について、いろいろ伺いました。
中心にいる2人は60年の歴史を持つ喫茶クラウンのママと、手芸・毛糸屋の丸善の女将さん。右上は、堀田商事先代の若き頃の堀田次郎・一枝夫妻、黒電話の名畑恵さん、吉田商事会長、神谷茂雄さん。左下は、株式会社糸和・佐藤順一さん、「三坪の小さな店から始まった」ファッションコイケ・小池隆さんの青年時と現在の本重町町内会長の小出さんとご家族、バイクにまたがる八木兵(株)の山口兼市社長、丹羽幸・丹羽幸彦相談役。左側上の笑顔のご夫妻は昭和15年創業・八木兵山口先代ご夫妻と妹さん。戦争に行った兵隊さんは滝一会長。福生院・お聖天さんの松平住職。下には、綿常(株)浅野隆司さん、1840年(天保11年)創業のお茶の升半・横井さん。最下段でクラシックカーに乗るのは、街のコンセプト創り延藤安弘先生とドラマ「氷山のごとく」出演者の長者町の従業員たち。
商店街として事業規模や町の序列とは違い、中心にいるのが小さな店を営む女性というのが面白いですね。「上長者町に漏れくる三味の音も 今は聴かれず昔懐かし」など、絵に書き込まれている短歌は、町の人が長者町への思いを込めて詠んだものです。作者には、町の歴史を共有していくことが大事だという思いがあり、町の昔が今につながることで「新生」しています。トリエンナーレ芸術祭の主旨にこたえた同作品のお陰で長者町はアートの町として世界に認知されようとしています。