■出身
戸籍上の出身地は岐阜市、母親が2歳半で死亡、父親とは生き別れ状態でした。
私は岐阜高校への入学を希望していました。昭和32年から岐阜県の高校入試制度が大学区制になり、私の年度が初年度でした。岐阜県内の何処からでも入学試験を受けることができて、県内から多くの生徒が下宿して学校へ通っていました。東海旅客鉄道(株)の柘植康英社長も岐阜高校の出身と聞き、質問してみたところ、確かに平成25年度の名簿に載っていました。社会人になってから、多くの経済人が岐阜高校出身であることを知りました。
■恩師
両親が不在というハンデキャップがあった中で、恩師がクラブ活動で「演劇部」を勧めてくれました。私にとって「演劇」が人生を決めてくれた気がしています。その恩師である劇作家・演出家で岐阜県が誇る有名な「こばやし・ひろし」は、自身が設立した「劇団はぐるま」に力を注いでいました。私は、岐高クラブ活動の演劇部と「劇団」の両方で芝居に没頭していました。私の主な出演作は1965年「こばやし・ひろし」の代表作「郡上の立百姓」です。2000年9月に「郡上一揆」とタイトルが変更され、全国の映画館で上映されました。私はどうしても演劇を続けたいと頑張っていましたが、宇野重吉先生から「おまえは俳優にはなれないから、このあたりで芝居を辞めよ」と言われて、現在の仕事に転身しました。
■創業
昭和52年、当時の建設業界は、どの業種も一筋縄では進めない実態がありました。勤務先の取締役として、決算が終了するたびに、経営者から苦情が舞い込んでいました。5年ほど続いて決算のたびに悩んでいた時、家内が「ゼロから出発してゼロになっても良いじゃない。創業したら」と一声。なんと無責任なことをいう家内だと思ったものですが、よく考えると正論であり、創業を決意したのは、昭和52年12月8日です。
■出会い
創業の難しさを肌で感じていた時、勤務時代にお世話になった方から呼出しを受けました。その方は八田晃夫氏(台湾を農業国にした八田與一の長男)で、台北一中時代に家内の父親の教え子だったのです。東京大学土木科を卒業して内務省に入った優秀な人材でした。勤務時代の私は、官公庁と電力会社の仕事を主として担当していたことから、創業したばかりの会社へ、当時の建設省OB・愛知県土木部OB・名古屋市OBを顧問として送り込んでもらいました。これが功を奏して、3年目には花が咲き始めたのです。次に、主として担当していた電力会社の開拓も困っていましたが、長年のお付き合いがあった電力会社の担当者からの応援が見え出しました。私は運の良い男ですが、工事実績づくりは非常に苦労しました。工事を積み重ねて12年を超える頃から、少し実績ができるようになり、人脈に感謝する日が続きました。1984年から毎年続いている名古屋テレビ塔塗装工事は、人脈と技術力です。
■将来に向けて
この6月で決算は38期を終了しました。月刊誌『致知』の記事「社会教育家・田中真澄氏」によると、日本には大中小零細を合わせて600万社あると言われています。その中で100年以上続く会社は15,200社あると言います(率では0.25%)。アイチテクノは、先ず創業60周年を目指して、経営理念「買い手よし・売り手よし・世間よし」、近江商人の根性を非常に大切にして頑張ります。