1. 前創業期(〜明治10年)
明治維新に始まる近代日本の歩みに不可欠な、「縁の下の力持ち」として多くの大手ゼネコンが創業した。建築系の人々は技能者集団の請負形態であり、土木系の人々は人間集団であり、土木系の企業者が企画・設計から調達に至るまでの一切を実施した。その象徴として、明治5年新橋・横浜間に鉄道が開通した。明治7年、西松桂輔が旗揚げし今年137年目となる。
2. 創業期(明治10年〜大正3年)
桂輔は、西南戦争勃発時に荷役作業のために九州に上陸し鉄道工事に従事した。明治36年長男光治郎が稼業を継いだ。まだ独立して工事を請け負う力はないと判断し、明治39年西松組・間組間で合同歩合組合組織を結成した。
3. 個人経営時代(大正3年〜昭和4年)
大正3年独立し京都に西松工業所を設立し、同年「運命の宮崎線第12工区」の線路新設工事を落札した。出血受注であり物価高騰などがあったが、組長自ら陣頭指揮に立ち全ての金を注ぎ込んで工期内に完成させた。これが鉄道院当局に感銘を与え、絶大な信用を得て、その後の鉄道工事で大きく飛躍することになった。大正5年西松組と名乗り、各地域の鉄道工事や水力発電工事を受注した。
4. 会社組織時代(昭和4年〜11年)
昭和4年合資会社・西松組とし、会社のモットーを「組は組長個人のものでなく、組員全体の組である」として同族経営を否定した。
5. 海外進出時代(昭和11年〜20年)
支那事変勃発に伴う軍需・民需の拡大に対応し、(株)西松組を設立した。その後の軍需中心の建設投資に対応し、昭和15年満州西松組を設立し、東南アジア諸国へも進出した。
6. 激動期(昭和20年〜25年)
終戦により工事の9割を占めていた海外拠点とその資産を全て失った。当時最大の発注体であった米軍の工事も引揚者対策と社屋移転に追われ、完全に出遅れた。しかし、偶然仙台の米軍基地の工事を受注し、信頼を得て三沢基地の工事も請け負った。昭和23年西松建設(株)を発足させた。
7. 躍進時代(昭和25年〜30年)
技術提携や機械化施工を行い、水力発電工事と米軍工事で大いなる躍進を実現した。
8. 高度成長期(昭和30年〜46年)
高度成長の波に乗り、特に香港、タイでの合弁など海外進出に注力した。
9. 西松建設の現状
高度成長期に当時の建設省の方針は、「業者育成策としてのJV」、及び「土木業界での新工法の1社独占は許さない。必ず協会を作って共有すること」であった。したがって、各社の独自技術が広く普及し均一化された。トンネルなどの難工事では著しい技術開発が行われ、シールド工法、NTM工法など安全な工事も実現できるようになった。また、談合問題もあり技術開発が鈍り、各社の持ち味に関係なく誰でもできるようになった。当社の得意分野を聞かれても「何でもできます」と答えている。
今後は、請負業への専念であり今後の維持修繕工事など仕事はなくならない。一方で、脱請負業への転換も考えており、いろいろトライしており、当社の得意分野を開発しながら競争力の源を築いていきたいと考えている。
10. 社会的課題への当社の対応
(1)東日本大震災における初期対応、(2)がれき処理業務、(3)福島原発の除染技術の実証実験、(4)タイの洪水の技術支援、(5)新工法などについて説明された。 |