1.経済同友会と私
昭和60〜62年、社長在任中に中部経済同友会・代表幹事を務めさせていただいた。本日はなつかしい方々に会うことができ、嬉しく思う。同友会は他の経済団体と違い、個人会員で自己研鑽が特徴であり、世話人の方はテーマや講師の選定で苦労されていると思う。本日の話が役立つか自信がないが精一杯お話したい。
2.何故、漱石か
漱石の小説に出会ったのは大垣の中学生時代で、最初に「坊っちゃん」、面白いと思った。次に「吾輩は猫である」は、話の筋やストーリー性がなく、本当に小説かと疑問に思いつつ苦労しながら半年くらいかけて読んだ覚えがある。大学時代に、ある人から「難しい哲学書はわからないだろうから、漱石の本から読み始めたらどうか」と言われた。また、会長になった時に、未だに「吾輩は猫である」の良い点や魅力がわからず再読し、改めて面白いと思った。その後、地元の大学などで「漱石の話をして欲しい」と依頼され、何度も話しているうちに専門家と言われるようになった。実際は研究家でも学者でもなく、一読者である。明治から今日までの小説家で第一人者は、夏目漱石と言う人が多い。漱石の作品は日本の小説の古典である。
3.漱石はどんな人か
漱石の作品には、彼の人生が影を落としている。彼は五男であり、生後すぐに里子に出され、また養子に出された。しかし、養父母が離婚し行き場がなく、実家に帰るも厄介者扱いにされた。幼少期の経験については「道草」という小説で自伝的に語っている。中学時代は親戚や友人宅を渡り歩いたり、病気にもなり落第した。当時、落第は世間に恥ずかしいことであり、落ち込んだという。(太宰治は、漱石と似た境遇であったが人生に失望し、心中してしまう。)しかし、漱石は何とか立ち直り帝国大学(現:東京大学)を最優秀の成績で卒業し、高等師範学校(現:東京高等師範学校)の講師になったにもかかわらず、松山の中学校の教師に転じた。松山での生活は、親友である正岡子規の俳句の影響を受け、漱石が作家になる下地となったと思われる。その後、熊本の高等学校の講師となり結婚して、人生に大きな影響を与えたロンドンに留学した。留学生活は孤独でお金もなく、2年で帰国し、東大で英文学の教授となった。まじめな講義は評判が良くなかったので、ホトトギスを書いている高浜虚子から小説を勧められ、書いたのが「吾輩は猫である」であった。
最初の漱石の小説は、とても評判が良く、2回目以降も短編小説として続いたが、筋がない。しかし、小説というものは、登場人物の心の動きをつづる方が面白いとも言える。次に、「坊ちゃん」を書いた。その後、朝日新聞社から「新聞小説を書いて欲しい」と依頼され、東大教授を辞めて本当の作家活動に入って行った。その10年後、49歳で亡くなり、短い人生であった。対照的なのは森鴎外であり、医学を学ぶ為ドイツに留学、帰国後幾多の短編小説を書き、軍医総監になった。70歳まで生きた、ロマンスも多い華やかな人生であった。短く波乱の人生を送った漱石であったが、小説の価値は森鴎外にも劣らないものであった。漱石という人物の特徴は、人生に失望し、自殺願望があったこと、親を見返してやるという人生を送り、大学教授の職を捨てて、作家活動に専念したことである。
4.作品
前期三部作は、「三四郎」「それから」「門」である。「三四郎」は青春小説であり、熊本の高校を卒業し東大に入り、東京生活の恋物語である。東京の女性は進んでいて頭の良いように思えてたじろぐ。「それから」は、男女の生々しい小説である。好き嫌いから愛へ、やがて結婚し生活する展開となるが、内容はいろいろ解釈があり難しい。「門」は、略奪婚の話である。結局、男女の関係は簡単なものではないということである。
後期三部作は、「彼岸過迄」「行人」「こころ」である。同じように男女の関係を描いているが、男のエゴにふりまわされる女の話である。「彼岸過迄」は、兄弟のように仲の良い従兄同士の結婚問題や嫉妬などを描いている。「行人」は、男は身勝手であることを描いている。「こころ」は今日まで一番売れている小説である。また、 「道草」は、親と子、夫と妻の物語である。
5.読書のかたち
人間は思っていることとやっていることが違う場合があり、本音と建前がある。漱石の小説は、人間は本当の気持ちだけではないことを描いている。一度読んでいただきたい。また、小説はストーリーと言うが、心の動きをつづったものが小説である。さらに、リーダーシップは知識、情報よりも人間と人間の関係、人間的考え方、あるいは人間はいかに生きるかに関連してくる。ドラッカー以上に、漱石の小説を読むことにより、見識、情操、教養が少しは豊かになってくると考える。 |