テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第4回 』
料亭つたも主人
深田正雄
三業者の街、終戦後住吉の商人達
元禄の頃、御畳奉行朝日文左衛門は芝居が大好きで、目立つ本町通を避けて住吉界隈で深編み笠をかぶって、若宮八幡、清寿院、大須観音、七つ寺に出かけたようである。このころから本町の東、住吉通りは芸者・置屋・料亭の三業者の街として栄えました。
祖父、良矩曰く「戦前の住吉は、芸者300名、料理店・置屋40店舗以上で大きな料亭が軒を連ねていた・・・」とのこと。私も小学生の頃には、住吉通りの西はキャバレー、東は割烹店が多く繁盛していたことを思い出しております。
何か記録はないかと思っていたところ、シリーズ第2回で紹介した昭和34年4月、皇太子と美智子様のご成婚を祝って産宮住吉神社建立時の寄進品より、当時の進駐軍マーケットから神武・岩戸景気に沸き立つ商売のツワモノ達をたどっていきます。
若宮HP:http://www.wakamiya-bridal.com/wakamiya/powerspot/index.html
住吉神社写真:若宮境内北東
寄進内容と当時の商人紹介
鳥居一対:料理旅館蔦茂(住吉町2丁目)・・・祖父良矩が若宮の専務総代を務め、当時は旅館としても繁盛、この頃、南館ビル建設、日本画の収集にも熱心でした。屋号の蔦茂は若宮にて好評の歌舞伎「一本刀土俵入り」の茂兵衛とお蔦さんからいただいとか??まもなく創業100年の名古屋市内では最も歴史ある料亭。
狛犬一対:山田久太郎(2丁目)・・・キャバレーメイフラワー経営、ミカドの山田泰吉氏の実弟、多くの米兵が出入りしておりました。よく火事騒動があり、近所ではハラハラの連続でした。兄同様、事業が困窮して、処分されましたが現上田オーナーも名前は継承されて、飲食テナントのメイフラワービルと呼ばれています。
燈籠一対:浅井鎮一・川本真一(3丁目)・・・中京既製服として、いち早く既製服(首吊り背広)を全国のテーラーに販売、現在はマンション経営。
清め洗い:菊花堂本店(2丁目)http://pws.prserv.net/kikkado/honten.html
明治時代外松ネ三郎創業の文具卸老舗、皇室の菊の御紋がトレードマーク。絵葉書、地図、アルバムでは著名。同社の自主廃業に伴い、現在は愛知コクヨ加藤憲株式会社の関連組織となる。かに道楽跡地となり、現サラ・スクエアビル
神殿横・石柱一対:近藤産業株式会社(2丁目)・・・老舗の鞄卸商として活躍、
先代は3丁目水野鞄店から独立創業したとのこと。当時から本町を中心に鞄袋物問屋が多く全国の百貨店を販路としたようです。現在は、若者向け飲食店の今昔物語、ななやタイガーなどが入居。
石柵碑・正面北角:中部観光株式会社赤玉会館(1丁目)・・・日本のドンキホーテ山田泰吉氏・戦後最初の事業:「特殊慰安施設協会」が従業員を募集していた。たかをくくっていたら、若い女性が殺到したとしばらくして報道されていた。「女は現実的だ」と再認識した彼は、昭和21年、進駐軍を相手にした「赤玉」というキャバレーを、広小路角の焼け残った富国生命ビルで開業、23年には中部観光株式会社設立、幅広いレジャー産業に参入、そして、翌24年にはパチンコ赤玉会館をオープン。その後のキャバレーミカドの展開は余りに有名:詳しくは下記参照下さい。跡地は東急イン栄となっています。山田泰吉:http://www.takjapan.com/takGigaGinga961225.htm
まだまだ、続く、戦後の住吉商人ストーリー、次回もお楽しみに! |