1.はじめに
私は昭和41年に旧国鉄に入社し、名古屋鉄道管理局に配属され入社4年目に岐阜県瑞浪の駅長を務めた。地域とともに歩む鉄道ということで地元の方々との交流は今も続いており、第2の故郷である。その後は、30年程前に常磐線の水戸駅に3年程勤務した。今回の大震災により、大きな損害を受け心を痛めている。JRが誕生した昭和62年から再び名古屋に転勤となり、平成3年から5年程JR東海の関西支社長を務め、平成7年に阪神淡路大震災に遭った。最近10年間は、東京で広告会社のJR東海エージェンシーや新幹線の雑誌WEDGE社、JR東海パッセンジャーズの社長を務め、昨年から、名古屋のタワーズの運営会社である弊社に勤めている。
2.名古屋駅の誕生
名古屋駅は明治19年に初めてできたが、経緯は複雑であった。明治初期に文明開化の象徴として、日本の鉄道が初めて新橋・横浜間29kmで開通し、明治7年に神戸・大阪間、明治10年に大阪・京都間が開通し、西と東で鉄道ができ始めた。その後、双方を結ぶ幹線を作る計画について、東海道か、中山道ルートか、議論があり、明治16年に中山道ルートが決まったのは、軍部の意見が強かったためである。英国、オランダとの戦争や薩英戦争が起こっており、海沿いは危険であるという判断であった。しかし、軽井沢・横川間が66/1000という急勾配で難所であり、10数年もかけて完成した。そこで、急遽明治19年春に方針を変更し、明治22年に新橋・神戸を結ぶ東海道線が急ピッチで完成した。資材を陸揚げする武豊線は東海道線の支線となった。初代の名古屋駅は、間口46m、木造平屋、ホームは130m。また、日清、日露戦争の影響により、軍事輸送、食料輸送の手段として鉄道が使われた。私鉄と国鉄を乗り継ぐ不便があったため、明治39年鉄道国有法により幹線は鉄道省の直営である国鉄となった。
3.東洋一の駅舎完成
その後、貨物取り扱いを分離し、稲沢操車場、笹島貨物駅ができた。輸送量も増え昭和12年に名古屋の新駅舎が完成した。高架で間口263m、延べ4万m2であった。特徴は、当時日本では珍しく東西が自由通路で、車や人の通行が可能となった。コンコースには浴場やクリーニング、マッサージなど長旅の疲れを癒す設備があった。
4.戦後復興と高度経済成長
大戦後、昭和22年都留重人氏が最初の経済実相報告(経済白書)を発表し、国も企業も家計も赤字だが、この国難を力を合わせて乗り切らなければならないとした。傾斜生産方式により、最初に石炭、鉄等の基幹産業から順に復興させ、鉄道も一生懸命努力した。昭和24年、日本国有鉄道が発足したが、GHQの管理下で誕生した中途半端な組織で、総裁は10人歴任したが、任期を全うした人は1人であった。その後高度経済成長の時代に入り、昭和39年には東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが行われた。戦前に弾丸列車計画があり日本坂トンネルなどの建設が途中まで進んでいたため、短い工期で新幹線は開通した。昭和45年の大阪万博で6240万人の入場者の内、1000万人を東海道新幹線が運び大活躍し、動くパビリオンとも言われた。当時の国鉄は赤字であったため、国鉄が直接出資する駅ビルの開発規制が自由化された。これに伴い、昭和49年名古屋ターミナルビルが完成した。
5.国鉄分割民営化、JR東海発足
昭和62年、国鉄の分割民営化に伴い、JR東海も発足した。JRは東日本、東海、西日本、北海道、四国、九州の6社、及び貨物会社、情報システム会社、研究所、新幹線保有機構、清算事業団などができた。JR東海は車両を一新し300系の時速275kmの高速化、25%の軽量化を図った。阪神淡路大震災を契機に構造物の強化、及びテラス・システムの構築(東海地震に備え地震の最初の縦揺れのピークを感知し、即座に新幹線が停電しブレーキがかかる)を行い、今回の東日本大震災にも役立った。新幹線は700系、N700系の新しい車両に切り替え、平成17年の愛知万博ではリニア館を出展した。
6.これからの名古屋駅
平成28年をめざして、現在の名古屋ターミナルビルを取り壊し新たなビルを建て、駅が街になるようセントラルタワーズとの有機的な結びつきを考えている。名駅ビッグバンとして、今後リニアの発着地として厚みを増していく。名古屋駅は明治29年の開業から125年が経つが、昔から日本の中央に位置しており立地条件の良さは将来とも変わらない。20世紀の東京一極集中の時代から道州制や首都機能の移転・分散が考えられる。そのためにも鉄道の果たす役割は大きく、名古屋以外の人から見ても名古屋が魅力的で発展していくことを願い、後輩に夢を託したい。
今年3月にオープンした「リニア・鉄道館」をぜひ見学してほしい。 |