1.やきものを巡る初めての旅
やきものはよくわからないと言う人が多いが、私も20年前までは同様であった。20年経過し、やきものが好きになった理由を紹介すれば、焼き物の魅力をご理解いただけると思う。平成3年4月、トルコへ出張する機会があり、休日にイスタンブールの世界遺産であるトプカプ宮殿に行き、15〜18世紀の東洋陶磁の膨大な数のコレクションに出会った。
その後、英国のトヨタ工場があるダービー州に行き、ロイヤルクラウンダービー社の洋食器の工場見学を行なった。「OLD IMARI」のブランドが現在も生産されているが、ルーツは日本の伊万里焼であった。この時、同行いただいた陶芸家 加藤五山先生との出会いが、自分の運命を大きく変えた。帰国後、先生の人柄に魅かれ、陶房を訪問するようになったのが、やきものの世界に入るきっかけとなった。
2.やきものの定義・分類
3種類あるが、(1)「土器」は、焼成温度が750℃前後で低いため強度が弱く、吸水性は大きく透光性はない(縄文、弥生土器等)、(2)「陶器」は、焼成温度が1,000℃前後で高いため強度が強く、吸水性は小さく透光性はない(志野、織部、常滑等)、(3)「磁器」は、焼成温度が1,350℃前後で高いため強度が強く、吸水性はなく透光性はある(伊万里、九谷、瀬戸等)。
3.やきものの日中の歴史
日本で最初に7世紀の飛鳥時代に、奈良にて須恵器、中国で9世紀の唐時代に、唐三彩が作られ日本に伝わって奈良三彩が作られた。平安初期に猿投窯、中国の宋時代に白磁、青磁、元の時代に染付磁器が作られた。さらに、室町時代半ば足利義政の頃に、茶の湯の文化がほぼでき上がったと言われている。同時に、織田信長の力により茶陶の価値が飛躍的に向上した。千利休により楽焼が作られ、志野・織部・黄瀬戸などの陶器が作られた。また、秀吉の時代の唐津、萩、薩摩、京焼の陶器、並びに酒井田柿右衛門の有田、伊万里、九谷の磁器が作られた。東インド会社は、中国の明から買い付けていたが政情不安により、日本から有田焼など初めて買い付け、欧州で販売し、大変好評を得た。江戸時代末期に瀬戸の磁器、明治時代には工業製品として磁器が大量に生産された。昭和時代の荒川豊蔵、加藤唐九郎が桃山時代の陶器を再現した。
4.地元のやきものの変遷
平安時代に初めて猿投窯が作られ、その技術が東山、渥美、常滑に伝わった。さらに、東山から瀬戸に伝わり、中国の磁器の写しや黒っぽい施釉陶器を作っていた。室町、桃山時代に美濃に伝わった。1806年に加藤民吉が初めて磁器をつくり、1900年代初めに磁器生産日本一となった。美濃では人間国宝の荒川豊蔵、加藤唐九郎を輩出し、陶器では最も盛んである。
5.茶の湯の文化とやきもの
茶の湯の文化は、16世紀の足利義政以降、大名、上流階級の社交の場などで奨励され、桃山時代に大きく花開いた。千利休は、わび茶の精神を茶碗に具現化する形で、長次郎に「黒楽茶碗」を作らせた。それは、何かを表現するのではなく、表現しないための技術である。表現を殺していくと色は「黒」となり、ろくろで作った人工的な形ではなく、手で作ったいびつな形こそが自然のままの技術と言われている。長次郎、光悦の楽焼や仁清、乾山の京焼が当時の一流ブランドと言える。
6.やきもの作り
焼成、土、細工の3つがあるが、焼成が製品の出来栄えに最も大きな影響を与える。酸化焼成と還元焼成がある。愛知県が陶器、磁器で栄えた理由は木節など最高の土に恵まれたことである。中国では磁器が長く作られ、日本では陶器が長く作られたが、その理由はそれらに適した良い土がたくさん取れたということである。
7.やきものの魅力
(1)無から有を創る:形のない土から形のある器ができる技術、言い換えれば「生命のない土に生命を与える技術」、(2)1000年超の歴史を持つ技法:数多くの陶工、陶芸家の試行錯誤により確立された伝統技法(日本の文化)、(3)用の美:色彩、造形の美に加え、器の機能としての「用の美」を併せ持つ(質感)、(4)手作り: 炎と土と人の手により制作され、全く同じものは2つと存在しない、(5)古い時代へのロマン:昔の多くの人が触れ、使ったものを今自分が手にするわくわく感と希少価値。
8.もうひとつの魅力―陶房
自然の雰囲気の中にあり、いろいろな分野の有名人とも会うことができ、楽しいやきものの会話ができる。穴窯は現在コストや環境問題の関係で年1回焚くだけである。皆が作り貯めた作品を毎年11月に3日3晩かけて数千個焼いている。 |