(株)アクティオ名古屋支店
支店長 水谷文和
日本一の大工棟梁は名古屋市熱田区出身の岡部又右衛門以言(これとき)。代々熱田神宮の宮大工として仕えた由緒ある家系で、織田信長が専属の大工として登用し、安土城を築城した大工棟梁である。
安土城完成後に、信長より「日本総天守之棟梁」を名乗ることを許され、文字通り「日本一の大工棟梁」となった。
しかし、岡部又右衛門の記録は驚くほど少ない。それは、「本能寺の変」のあと安土城が焼失したことも原因と思われるが、他にもいくつかの理由が考えられる。
1. 城の築城は、普請(土木工事)と作事(建築工事)に分けられ、〔普請〕は城の土塁・石積み・堀など大規模なもので、城全体の7〜8割を占める。又、〔普請〕は家臣に分担させて競わせたため、石積みの工法や、大石の調達実績が家臣の手で記録に残されていることが多い。それに対して〔作事〕は、全体の割合が僅かなものであり、城の内部は機密事項として扱われた事も、記録が少ない一因と考えられる。
2. 安土城は天下統一を象徴する意図があり、従来の城のイメージを一新した画期的な城であるが、「本能寺の変」以降は再び戦国の時代となり、城のデザインは華やかさよりも防衛機能が優先されるようになった。その後、質素倹約を重視する徳川時代に移り、安土城のような豪華絢爛な城は、再び世に出る機会を失った。このため、岡部又右衛門の功績が後世に残りにくかったと考えられる。
安土城の意匠(設計)については、信長から「唐様の城をつくれ」と指示されたと言われている。五層七階の望楼式天守で高さは約35m。最上階は、金箔をふんだんに使い瓦は赤色、その下の展望階は八角形で外柱を朱塗りにした奇抜なデザインで、唐様を表現した。
意匠に影響を与えたといわれる多聞山城(城主:松永久秀)が四階建て、信長が安土に移る直前に居城とした岐阜城も四階建て。これに対して、安土城の五層七階建ては、城郭史上空前の規模であったことが理解してもらえるだろう。
当時は、強度計算や詳細な設計図などは無く、何の材質で、どれだけの太さの柱を使えば7階建ての建物が支えられるかの判断は、棟梁の「経験」と「勘」だけが頼りだった。
大工棟梁の仕事は、大工仕事だけではない。 設計、材料調達のほか、左官、瓦、金具、建具、畳、欄間などの専門職人を束ねていくことが仕事である。小説「火天の城」山本兼一:著は、岡部又右衛門を主人公にして安土城築城までのストーリーがまとめられている。棟梁は技術だけではなく、人をまとめる力が重要である事が理解できる。
さて、「火天の城」で、又右衛門は、安土城の芯柱には一尺五寸角(45cm角)で長さ約17mの材木が4本必要だと考えた。 その太さを切りだすには直径1.5mの大木が必要となる。 7階建ての城には大量の瓦も据えられる。この重さを支えられるのは、強度と粘りのある木曽ヒノキしかないと考え、木曽福島から苦労して調達したことになっている。木曽川上流から材料を流して運び出すが、「寝覚めの床」の激流が最大の難所となっている。
「寝覚めの床」は、産業懇談会のゴルフコンペを開催する木曽駒高原カントリークラブに向かう途中にある。今回の記事を書くにあたり、何かヒントが無いかとゴルフの帰りに近くの資料館に寄ってみたが、残念ながら参考になるものは見つからなかった。
また、当時の木曽福島地方は、武田勝頼の領国となっていて、敵の織田方に材木を運搬することは相当に困難なことであったと想像される。木曽地方を領する木曽義昌が、武田を見限り、勢いのある織田に寝返りを画策したと考えれば可能なことだ。又は、実際には木曽地方ではなく、他から調達された可能性も考えられる。実際のところ資料が残されていないため分からないが、どちらも有望な考え方である。
岡部又右衛門は、本能寺の変で織田信長と運命をともにしたといわれている。しかし、その後、子孫は織田信雄に仕えたとも、熱田に戻ったとも言われているが、実際のところは不明だ。
織田信長は全てにおいて超一流を登用した。いや、一流を「超一流」に育てたというのが正解だろう。金に糸目をつけず、理想を実現させるために才能のあるものを見つけて積極的に登用し、妥協を許さず高いレベルに挑戦させた。この環境が岡部又右衛門を「日本一の棟梁」に育てたと言える。「人」の育成は我々にとっても永遠の課題だが、現在の環境は人を育てるには過保護すぎるのではないだろうか・・・
いろんな説があるが、私はこのデザインが最も本物に近いと思う
【参考資料】
火天の城 文芸春秋 山本兼一著