1. 日比谷総合設備株式会社の概要
日比谷総合設備は、空調・電気・衛生設備を中心とする建築設備工事会社である。皆さんのご存知のところでは、複雑な構造で苦労はしたが、名古屋駅前のモード学園スパイラルタワーズの工事に関わった。当社の社風は、一言で言えば、真面目。真面目さが、間違いない仕事をできるものと思っている。また、業務内容は、元々、電電公社(現、NTT)の関連業務から始まったため、データセンターとIT関係の割合が高い。前職の電気通信事業とは異なり、現在の建築設備工事業は目に見えるため、仕事の成果を実感できるようになった。社名の「日比谷」というのは、当時、電電公社本社が東京の日比谷にあり、当社もその近隣に所在していたことから、「日比谷総合設備」と名付けられた。東京本社の会社ではあるが、私の出身は名古屋。名古屋を離れた期間は長いが、純粋に名古屋を想う名古屋人という立場で話をさせてもらう。
2. ゆかりの地
私の出身は、地下鉄高畑駅から歩いて10分程の荒子(中川区)。ここは名古屋の郊外にあって、1921年(大正10年)に名古屋市に合併されたこともあり、昔から荒子に住んでいる人は、東別院や栄辺りへ出掛けることを「名古屋へ行く」と言う。地元の名産には、荒子観音名物「円空 大黒天もなか」「よしだ麺のきしめん」などがある。
荒子観音は尾張国四観音の一つで奈良時代の天平元年(729年)に創建された。1536年再建された境内の「多宝塔」は市内最古の木造建造物で、重要文化財になっている。ここ荒子観音は、円空仏が1240体あることが有名で、うち1020体が昭和47年に発見された。円空仏は4センチ程の木端仏から、3メートル程の阿吽の仁王像まである。梅原猛氏の『歓喜する円空』を通じて改めて調べると円空は江戸時代、岐阜に生まれ、平安時代の木彫り仏を復活させ、12万体の仏像を彫ったと言われている。そのうち、現存しているのは5千体程。荒子観音、竜泉寺観音(守山区)、地蔵堂(津島市)において、千体規模で保存されているため、名古屋周辺のみで3千体に上ることになる。
来年(2010年)、荒子観音は恵方(西南西)年にあたるため、節分(2月3日)にはお出掛けいただければと思う。また、荒子は加賀百万石の初代藩主 前田利家の生誕地としても知られている。
3. 名古屋・超400年史
来年、名古屋は開府400年を迎えるが、意外と名古屋の歴史は知られていない。この間をキーワードのみで年代順に整理すると「清州越」に始まり、「御三家」「芸処」「政治下手」「偉大なる田舎」「トヨタ」「汎太平洋平和博」「東名阪」「オリンピック」「デザイン博」「愛知万博」ではないかと思う。このうち、幾つかをピックアップすると、はじめに、「偉大なる田舎」。特に、今は使われなくなったが、この言葉に、私は嫌な思いをした。これは聞くところによると、名古屋市大合併時(1921年)に、市の面積が4倍以上となり、田園地帯が広がったことに由来するそうである。
次に、「博覧会」。名古屋では明治以降、博覧会が10回ほど開催され、街の発展に大きく寄与した。最初は、大須のお寺で開催されていたが、徐々に規模が大きくなり、名古屋開府300年を記念した1910年の関西府県連合共進会は鶴舞公園で開催され260万人の入場者数を記録した。また、1937年に開催された汎太平洋平和博覧会では29ヵ国が参加して、480万人が入場した。その後のデザイン博(1989年)、愛知万博(2005年)はご存知のとおりである。
そして、最後に「御三家」。尾張藩は御三家の筆頭であるが将軍に楯突いたため、7代の宗春後、傍系藩主の時代が続き、尊王思想が強くなった。明治に入り、有名な青松葉事件(1868年)が起こり、有能な官僚が斬首されたことが、尾張藩が明治になり政府の中枢に入れなかったとも言われている。
宗春は予期せず尾張藩7代藩主となり、当時、幕府が緊縮財政を推し進めるなか、今のマニフェストにあたる『温知政要』で規制緩和や個性尊重を訴えるなど、8代将軍、吉宗に反抗した。このことが失脚の原因ではあるが、『温知政要』により、都市が活性化につながり歌舞伎などの文化が栄え、また、藩主になる前に『温知政要』を公表したことは、近代政治のさきがけでもあり、その功績は大きいものである。
4. 大いなる都をめざして
このように名古屋の400年を振り返ると、最初の260年は江戸時代。7代尾張藩主、宗春までの前半130年は人の賑わいを目指した華やかな街であったが、後半、宗春失脚以降の130年は賑わいのない街となった。続く、明治時代に入って、東京に従順になり、「人」から「もの」の賑わいを目指してそれなりの成功をした。
しかし、これからは、東京を真似るだけではなく、もう一度、宗春の思想に立ち返り、「ものの賑わい」に加え、「人の賑わい」のルネッサンスを追求し、これらのコラボレーションにより「大いなる都をめざして」発展させていく必要があるものと思っている。
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