『 尾張名古屋事始 』
日比谷総合設備株式会社
加藤 敏
1. 愛知万博の開催がきっかけとなり、名古屋の歴史に少しばかり興味を持つようになった。その年、念願の国家的大事業を初めて開催した名古屋の街には活気が溢れ、人々は七代藩主宗春時代の『享元絵巻』に描かれた栄華の再来に熱狂した。長らく"偉大なる田舎"と揶揄されてきたこの街が、自信に満ちた"大いなる都"であることを広く世界に発信した時でもある。そして、名古屋の元気はしばらく続くことになる。
来年は名古屋開府400年にあたり、名古屋城本丸御殿の復元事業などが予定されている。本丸御殿は城郭御殿の最高傑作といわれており、いずれは歴史的文化遺産として名古屋の新しいシンボルとなるであろう。建造物の復元により歴史の再発見への期待が高まることは間違いない。そこを舞台として繰り広げられた尾張藩の人々の歴史物語がどんなものであったのか―興味の湧くところである。
2. ところで、尾張藩の歴史といっても一般的にはそれほど知られていないし、地元の人にも身近なものとはなっていないのではないか。それまでの信長・秀吉・家康の三英傑のドラマの華々しさに比べて、メジャーな話が少なくどうしても見劣りがするからである。そこで、素人向けの歴史本がないかいろいろと探してみた。地方史専門書店「マイタウン」の店主で『徳川宗春』などの著作もある舟橋武志さんにも聞いてみたが、なかなか見つからなかった。名古屋市鶴舞中央図書館には名古屋市編纂の『新修名古屋市史』があるが、原始・古代から現代に至るまでの膨大な通史であり、手頃に読めるというものではない。
昨年末になって、愛知学院大学名誉教授の林董一さんに『将軍の座』という著作があることを知った。まもなくその新版が刊行された。尾張藩の視点から見た将軍の座を巡る御三家の政治力学についてダイナミックに分析されている。引用文献も豊富で読み応えがあり藩政の見どころを満喫できる。同氏には『尾張藩漫筆』というエッセイもあり、藩主の血統や付家老の家柄さらには領地など幅広い分野について書かれている。
その影響を受けて、名古屋市鶴舞中央図書館に時々足を運ぶようになった。2階の郷土史コーナーにある一連の『名古屋叢書』には多くの史料が収められている。尾張藩御畳奉行の朝日文左衛門重章による武士の日常生活を仔細に綴った長大な『鸚鵡籠中記』は特に有名である。元禄期から享保期までの27年間、二代光友から六代継友までの治世の貴重な世相が描かれている。通史としては、文政から明治にかけて書かれた奥村得義と奥村定の親子二代による名古屋城の百科事典といわれる大著『金城温古録』や、明治に書かれた阿部直輔による編年体の『尾藩世記』が知られている。これら著作の中には名古屋市の「丸八」マークの由来が示されており興味深い。
また、史料が完全に消失してしまっている七代宗春の足跡は、わずかに『遊女濃安都』という伝承の中に残されている。『夢の跡』や『ゆめのあと』など多くの諸本もあるという。享保期の名古屋の芝居小屋や遊郭などの華やかな賑わいが描かれており貴重な記録となっている。この他にも徳川園・蓬左文庫の家康の"駿河御譲本"など多くの史料が各所に所蔵されている。しかし、これら多くの史料は専門家の手を借りる必要のあるものばかりであり、素人向けではないだろう。
尾張藩は小説にもいろいろと登場している。その中で清水義範さんの『金鯱の夢』が昔から知られている。豊臣秀吉に秀正という正嫡が誕生して名古屋に豊臣幕府が開かれ、江戸藩という田舎を尻目に大いに繁栄するという物語である。尾張と江戸の関係を全く逆にしたパロディであり痛快である。また、七代宗春の波乱の生涯を面白く描いた清水さんの『尾張春風伝』、十四代慶勝の長州征伐や青松葉事件などを描いた城山三郎さんの『冬の派閥』も広く読まれている。
3. 尾張藩の歴史を辿って気ままな散歩をしているうちに、戦後最大の経済危機が発生し、自動車産業などの挫折もあって名古屋の元気はすっかり影を潜めてしまった。そして、創業の原点への回帰ということが声高に叫ばれている。この街の400年の原点とは一体何であったろうか。"始末"といわれる昔からの質素かつ堅実な気風なのか、それとも今や定番となった"モノづくり"という匠の技なのか、あるいは江戸時代にみられた権威への執着(付記参照)なのか、考え直してみることが必要である。どれも地味なものばかりで派手さはないのが特徴的である。
"大いなる都"の地位を確保してから、少しばかり有頂天になって持ち前の堅実さを失ってしまっているのではないか。お膝元の日本を忘れてグローバル領域にのめり込んでしまっているのではないか。そう思われてならない。折しも中京財界史をわかり易く描いた城山三郎さんの『創意に生きる』が読まれている。歴史に学ぼうという熱い思いから求められているのであろう。
この街の将来が再び光り輝くことを望まない人は誰もいない。この時期こそいい機会である。今一度、尾張名古屋の歴史の扉が多くの人々によって大きく開かれることを期待したい。
―気ままな散歩はまだ始まったばかりである。
【付記】
尾張藩の政治の一面として語られることが多いのは、以下に示すような将軍との確執である。鎖国の中の平和な時代の権力闘争かもしれないが、尾張藩にとっては敗北の歴史といってよい。なぜ勤王という権威に執着する行動をとったのかよくわからない。儒教的名分論の強い江戸時代でなければ、御三家筆頭の地位にとどまることはなかったに違いない。結局は江戸権力に及ばなかったことから幕末には反抗心も弱まってしまった。そして、明治以降は東京への憧憬や羨望という新しい行動スタイルに変貌していったのではないかと思われる。
家康の九男の初代義直から十六代義宜まで、御三家筆頭でありながら将軍を出すことはできなかった。初代義直をルーツとする尾張藩の思想が勤王であるというのがその理由の一つとなっている。名古屋城東門を入ってすぐ左手に茶店がある。その北側通路脇の二の丸庭園に「王命に依って催さるゝ事―藩訓秘伝の地」という石碑が建っている。この言葉は義直の『軍書合鑑』に書かれている。また、茶店の西隣には「尾張勤王―青松葉事件の遺跡」という石碑も建っている。幕末維新の藩内抗争で勤王派の十四代藩主慶勝が佐幕派を一掃した不幸な事件の足跡を示すものである。
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初代義直や二代光友は、御三家とは公方・尾張・紀州であるという「公方尾紀同格論」を主張し、御三家の位置づけをめぐって三代将軍家光と対立した。四代吉通や六代継友には将軍になるチャンスがあったにもかかわらず、政治力の弱さから紀州に後れをとった。『温知政要』を著わして八代将軍吉宗に反抗した七代宗春も勤王思想を強く主張した。しかし、蟄居謹慎処分を受けて尾張はしばらく沈滞した。
八代宗勝による再建の時代と九代宗睦による中興の時代を経て、義直の血統は途絶えた。その後は、十代斉朝から十三代慶臧まで紀州の血筋をひく将軍家や御三卿からの"押し付養子"の藩主が続き、将軍への反発は一段と強まった。
十四代慶勝になり、水戸の血筋はひくものの御連枝である美濃高須藩からの"地元藩主"が復活した。久しぶりに尾張に活気が戻り勤王を御旗に幕末史に登場したが、維新の表舞台に立つことも少ないまま廃藩置県となった。
このように尾張と江戸との確執は江戸時代を通じて長く続いた。そして、次第に尾張は従順になっていった。
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