【5年7月度 産業懇談会(木曜G)模様】
テーマ: 『 中部地域の電気事業の歴史と当社事業について 』
- 日 時:令和5年7月6日(木) 12時00分~14時00分
- 場 所:名古屋観光ホテル 桂の間
- 参加者:23名
自己紹介
私は1962年生れで、1987年に信州大学電気工学専攻の大学院を卒業後、中部電力株式会社に入社した。配電部門から営業・人事などを経験し、2015年古庄電機産業株式会社の常務取締役を務めた後、2021年同社の7代目代表取締役社長に就任した。創業者が電力会社の出身者であり、歴代社長の4名が電力出身者である。趣味は後ほど詳細に述べるが、ウォーキングやジョギングであり、マラソン大会にチャレンジしている。
中部地域の電力事業の歴史と当社事業について
電気の始まりは明治11年3月25日(電気の日)に現在の東京大学工学部の大ホールで開催された電信中央局の開業祝賀会において、アーク灯が点灯されたことから始まる。この約10年後の明治22年に名古屋電灯が旧名古屋藩の士族・卒族により創設され、現在の電気文化会館に電灯中央局を設置し、周辺の軍隊、官庁、歓楽街に電気の供給を行った。当時の電気は安全でクリーンな「灯り」として使用されていた。名古屋電灯は士族経営であり、世の中の変化に無頓着で、水力発電や動力需要への供給は全国より遅れ、ようやく明治43年に長良川水力発電所を建設した。この保守的な経営を見て、東海電気と名古屋電力が名古屋に進出、東海電気は安価の電気料金で参入したが、明治40年名古屋電灯に合併された。また、名古屋電灯が名古屋市との契約により、市内の電力の独占供給を行ったことより、名古屋電力は、木曽川水力発電の巨額な資金調達難で、名古屋電灯に吸収合併された。これを手掛けたのが福沢桃介である。福沢は大正3年に社長となり、木曽川水系の水力発電所を建設した。また、三菱重工などの工場を誘致したり、電気製鉄事業をはじめとする関係会社を自ら創設したりすることにより、名古屋地域に電力需要を創出した。さらには、余った電力を大阪地域へ送電するため、大同電力(のちの関西電力)を設立した。これにより、木曽川系の電力は専ら大阪向けとなったことが、中部の木曽川水系が関西電力に帰属している理由である。
電気事業により、水力で大量の電力が作られ、照明や動力革命が起こった。電気は生活必需品となり、民間の始めた電気事業は産業を支える公益事業となった。大正9年の戦後恐慌で経営に行き詰まる電気事業者が続出したため、名古屋電灯は電気事業16社を合併し、社名を関西電気に改称したが、名古屋市と対立関係となり、福沢は経営を後輩の松永安左エ門に譲った。その後大正11年に関西電気は九州電灯と合併して東邦電力となり、東海、奈良、北部九州に電力を供給し、本社を首都東京に置いた。東邦電力の初期には需要に供給が追い付かず、停電が続発した。松永は、自ら陣頭指揮にあたり、復旧の迅速化、供給電力の確保、供給設備の強化に尽力し、自社電源の確保に注力する事となった。当時は水力発電が中心となっていたが、火力と水力の併用を進めるべく、現在の大江に大規模な火力発電所を建設した。第1次世界大戦中と大戦後は電力電要が高く電源開発が進んだが、開発が完了する頃には日本経済が不況に陥り、膨大な余剰電力を抱える事となった。電力事業の集中と合併が進み、東京電灯(東京)、宇治川電気・大同電力・日本電力(関西)、東邦電力(中部)の5大電力体制が成立した。関東大震災をきっかけに帝都の電力供給を充実すべく、東邦電力は東京に進出し、群馬電力・早川電力を合併し、東京電力を設立、発電施設の充実を図り、東京電灯と拮抗する電力供給を行った。その結果、東京の電力供給は混乱に陥ったため、東京電力は東京電灯に吸収され、東邦電力は東京電灯の株主となった。
昭和11年に「国家電力管理案」がまとめられ、松永の反対もむなしく、政府により日本発送電株式会社が創設された。しかし、発足当時は日本発送電の運用が思わしくなかったため、政府は電気事業のさらなる管理強化を閣議決定し、電力事業が国主導の体制になった。昭和16年の勅令により、翌年全国に9つの配電会社が発足した。東邦電力は日本発送電や配電会社に設備を出資する事となり、同年解散した。これ以降、政府が電力料金と供給力を管理する体制となった。第2次世界大戦後は、昭和25年にポツダム政令に基づく電気事業再編成令・公益事業令が公布され、日本発送電株式会社と9配電会社は、発送電一貫の9電力体制に再編され、中部電力が設立された。
現在、電力自由化により、再び発送電が分離され、中部電力は中部電力パワーグリッド(送配電)、中部電力ミライズ(販売)、JERA(発電)に分社化されている。
古庄電機の事業について
当社は昭和22年に創立され、電力向け事業、車載半導体事業、一般民需事業の3つの事業を行っている。創業者の古庄義雄氏は佐賀県出身で明治9年に東邦電力に入社し、ビルマで発電所の建設資材調達業務に従事した。帰国後、当時の役員との食い違いにより退社し、古庄電機商会を設立した。その後、中部配電の支援の下、株式会社に改組した。電力向け事業は発電所の機材から配電線に至るまで、発送配電全般に亘る設備資材の手配と設置を行っている。車載半導体事業については、昭和11年東邦電力の創立50周年記念事業として設立された半導体研究事業がサンケン電気株式会社となり、同社の半導体製品の代理店を当社が務めている。この2事業が売上高の80%を占め、他を一般民需事業として100社程度のお客様に電気機械器具装置を納めている。
マラソンの魅力(私の趣味のご紹介)
会社の保健師から、高血圧と肥満を指摘されたが、お酒が好きでやめたくないので、運動でカロリーを減らす選択をした。平日は3万歩/日、休日は5~6万歩/日を目標に歩き、25kgの減量に成功した。歩けたなら走れるという事になり、2010年頃からマラソンを始めた。北海道から九州までの大会以外にも、海外のフルマラソン大会にも参加した。印象に残った大会を紹介したい。京都マラソンは沿道の声援が良くゼッケンに付けた愛称で、知らない人でも応援してくれる。駅伝の発祥の地であり、現在も多くの駅伝大会が開催されている事も一因であろう。東北みやぎ復興マラソンはエイド(水分やエネルギーの補給場所)の良い大会である。冷凍イチゴやはらこ飯など多くの地元の食材が提供されている。コースの約75%が東日本大震災の津波の被害にあっており、集落の賑わいを復活させたいとの思いで住民がエイドに集って郷土の食を提供している。海外ではグアムマラソンに2回出場している。金曜日の夜にフライトし、日曜の早朝3時にスタート、朝の8時までにはゴールして午後のフライトで帰国する。会社を休まず参加できる海外大会である。
市民ランナーは4時間を切ってゴールすることを目標とすることが多くサブ4と呼ばれているが、これまでの自己ベストは3時間37分でサブ3.5に近いレベルであった。しかし現在は故障等もあり、4時間10~25分のレベルであったが、再びサブ4を目指し練習を重ねた結果、3月19日のさが桜マラソンで3時間50分と60歳を超えて目標を達成した。タイムには思い残すことが無くなったので、これまで44回完走したフルマラソンの100回完走を目指すことにした。
【5年7月度 産業懇談会(火曜G)模様】
テーマ: 『 どうした家康~サザエさんちの御用聞きサブちゃんのお店はなぜ三河屋か? 』
- 日 時:令和5年7月11日(火) 12時00分~14時00分
- 場 所:名古屋観光ホテル 桂の間
- 参加者:40名
なぜ東京に三河屋さんなのか
歴史や食べ物を調べていると面白いことがわかる。東京には三河屋が多い。それは家康が故郷の三河の味噌を江戸で食べられるように岡崎の味噌を販売する商人を連れてきたからである。岡崎の味噌は八丁味噌で、家康の長寿の秘訣であり、天下統一の原動力である。八丁味噌は米や麦の味噌に比べ水分が少なく味噌玉になるため、信長、秀吉、家康は味噌玉を兵糧食として活用していた。米味噌は全国の8割の地区で、麦味噌は四国・九州で食べられている。一方、豆味噌文化圏は尾張、三河、美濃、伊勢の4地域しかない。飛騨や伊賀では米味噌なので、範囲は驚くほど狭い。八丁味噌は木桶で大豆と豆麹を使って仕込み、2年以上熟成させて作られる。2017年、この製法で八丁味噌を造り続ける老舗がGI(地理的表示登録)の対象外となりステンレスタンクを使い半年の早さで作られたものが登録されてしまった。GI保護制度により、八丁味噌400年の伝統が崩れるような問題となっている。豆味噌の食べられている4地域は古代から温暖な気候、広い平野、豊富な水源、黒潮、山林や自然に支えられた豊かで文明が栄えた地域である。また、3種の神器の2つを有する歴史的に重要なエリアであり、信長、秀吉、家康の三英傑を輩出している。
愛知県は農林水産業も盛ん
愛知県は、長野県、新潟県よりも農業出荷額が多く、全国8位である。上位はダントツ1位の北海道の他、鹿児島県、宮崎県、千葉県、茨城県などがある。工業県の愛知県で一番出荷額が多いのは花で、日本一の出荷額となる。豊明市には世界有数の花市場がある。他にもキャベツ、大葉、イチジク、フキの出荷高も日本一である。モノづくり県であるが、大農業県でもある。また、東海3県は漁業県でもあり、ウナギやアサリが有名である。アサリのしぐれ煮は当地だけの食文化である。ちなみに佃煮は東京から兵庫までの食文化である。伊勢湾・三河湾一帯ではエビの漁獲量も多い。昔はアカシャエビが取れすぎて、捨てていたが、勿体ないのでせんべいにしたものがエビせんべいでこの地方の特産品である。天むすやエビフライが有名な事も伊勢湾、三河湾におけるエビの漁獲量によるものである。フグも遠州灘沖で多く漁獲され、下関に送られている。木曽三川などの川はアユなどの淡水魚の宝庫である。三重県の海は、伊勢海老、アワビ、ハマグリ、カキが豊富にとれ、この地方は江戸時代より海産物の宝庫である。
豊富な農産物を活かした味噌や醤油等の発酵食品の製造も盛んである。尾張、三河、美濃は江戸時代から合計100万石を超える大穀倉地帯であり、麦や豆も多く収穫された。味噌を作る過程で生まれたのがたまり醤油であり、他の醤油よりも古い歴史を持つ。酒も江戸時代は灘や伏見に次ぐ生産地であった。酢やみりんも産地であり、当地特有の白醤油は素材の色を活かせる調味料として、京都などの料亭でも珍重されている。たまり醤油は、この地方の料理の決め手となっており、しぐれやきしめんの赤つゆや佃煮にも使われている。
当地独自の食と歴史
名古屋は味が濃いと言われるが、豆味噌は一番塩分が少ないし、たまり醤油も他の醤油に比べ塩分が少ない。味の濃さは豊富なアミノ酸によるものである。豆味噌もたまり醤油もアミノ酸が多い。ウスターソースの濃い口も塩分は低い。他の地域と比べ、名古屋は決して塩味が濃いのではなく、アミノ酸が多いのである。
酒造の技術は、京都伏見や灘から当地区に持ち込まれている。酵母を取り除き、長期保存を実現するための「火入れ」の技術は室町時代からあった。パスツールが加熱処理技術を考案するより400年も前に技術が確立していた。これにより、酒の長期保存が可能になり、尾張、三河等の酒をはじめ多くの生産物が尾州廻船で黒潮に乗って大量に江戸に運ばれる事になった。これで財を成したのがソニー創業者・盛田昭夫を輩出した盛田家である。盛田家は現在も酒造や流通業などを行っており、これまで多くの財界人を輩出している。ミツカンやパスコも盛田家の分家である。
酢は酒を更に発酵させて作られていたため、昔の寿司は高級品だった。これを酒粕から酢を作って量産できるようにしたのが、ミツカンの創業者 中野(中埜) 又左衛門であった。これにより寿司が手ごろな価格で食べられるようになり、江戸時代に庶民のファストフードとして普及した。
三河屋(サブちゃん)が運んだのは、尾張三河の醸造調味料である。江戸の味の基盤を作り、現在にも続いている。戦前までは、東京も豆味噌圏であったが、第2次世界大戦時の物資の不足により、三河で豆味噌が作れなかった時に、醸造期間が短く量産可能な信州の米味噌に東京の味噌はとって代わられた。東京で戦前から営業している有名店の食事は赤だしである。塩分の事などを考えると豆味噌の復権を願うばかりである。
名古屋飯は決して茶色だけというわけではない。白醤油も使われ、彩りも豊かである。赤色もある。トマトの栽培をはじめ、ソースやケチャップの製造もカゴメの創業者 蟹江一太郎により愛知県で始まった。名古屋コーチンやうずら、松阪牛など畜産も盛んである。
当地の歴史や文化を伝えたい。
製造業だけでなく農林水産業や自然、歴史に当地は富んでいるがあまり知られていない。学校でも教えてくれない。近現代、明治維新の基礎はすべて江戸時代に形成されていた。当時の識字率は寺子屋の普及により、世界一であった。この基礎があったので、欧米の文化を吸収し、近代化できた。江戸時代には戦がなかったので、世界史的にまれな平和な時代である。最近パックストクガワと言われるが、江戸時代に市場経済の基盤が完全にできていた。先物取引や海運、参勤交代による道路網の整備、そして教育、文芸、出版、芸能などは庶民にまで行き渡っていた。藩ごとの地方分権が確立していたため、各地特有の工芸や食文化も発達した。伊勢参りなどの旅行も盛んで、伊勢神宮には400万人が参拝したと言われる。女性だけで伊勢参りができるほど治安も良かった。江戸から学ぶ事は多い。江戸時代は自然と共生しており、欧米とは倫理観が異なる循環型社会である。SDGsは江戸時代にすでに実践されていた。こうした江戸の平和が明治維新の礎を築いたことは教科書に出てこない。これは、明治維新政府が自分たちの正当性を示すために歴史を捏造したからである。今こそ江戸を見直す時代だ。古代の尾張氏や幕末徳川家高須4兄弟の事はあまり知られていない。当地区は日本の近現代を支えた地区である。しかし、このような事実を知る機会はない。歴史を知るための国立や県立の博物館がないのは愛知県だけである。それぞれの市には博物館はあるが、この地域をトータルで歴史が分かる博物館はない。だから、愛知県は県民意識が低い。歴史上重要な地域である当地域にも国立や県立の博物館を作ってほしい。
【5年7月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】
テーマ: 『 名古屋観光ホテルの伝統とエスパシオエンタープライズ革新への挑戦 』
- 日 時:令和5年7月12日(水) 12時00分~14時00分
- 場 所:名古屋観光ホテル 曙西の間
- 参加者:27名
自己紹介
1962年に蒲郡市に生まれ、名古屋都ホテルを経て2000年に名古屋観光ホテルに入社した。2022年6月に現職である総支配人に就任した。
名古屋観光ホテルの伝統~Tradition~
1928年に名古屋ロータリー倶楽部の会長である伊藤次郎左衛門氏が「名古屋にも国際級のホテルを作るべきだ」と提唱し、名古屋商工会議所などが中心となりホテル建設構想がスタートした。1936年12月に現在の位置に地上5階、地下1階、客室数70室という構えで開業した。第二次世界大戦後の1945年には進駐軍により接収された時代もあったが、1956年にはホテルとしての営業を再開した。以降、天皇皇后両陛下、各国の賓客にもご滞在いただき長い歴史を積み重ねてきたホテルである。
1972年には建て替えを行い、新館が誕生した。建て替え中に帝国ホテルに研修に行った社員が名古屋でサービスや料理を再現、高さ81.5m、505の客室を持つ国際級ホテルに生まれ変わった。当時18階にはスカイレストランがあり、名古屋の夜景を堪能する事が出来た。陶芸家の會田雄亮氏がデザインしたロビーの石壁は当時のまま今も残っており、フロントに設置されている振子時計も当時の面影を物語っている。1階のメインバー「プエルト」も当時のままで、1枚板のカウンターは今も残っている。このように50年の歴史を大切にしながらホテルを運営している。
皇族のご滞在についても、1975年より当ホテルとホテルナゴヤキャッスルが順番に承り、接遇してきた。最近では2019年(令和元年)の全国植樹祭の時に天皇皇后両陛下にご滞在いただいた。両陛下が即位後すぐにそろって滞在されたこともあり、大変な歓迎ムードとなった。提灯奉迎では、ホテル前の下園公園に留まらず、近隣の小学校にも人波が広がり、大勢の歓声に両陛下はお手振りでお応えくださった。食事においてはメロンを入れないように、宮内庁より指示があったのだが、両陛下はメロンがお嫌いというわけではなく、過度に高級にならず地元の食材を楽しみたいというお気持ちの表れである。なお、プライベートで召し上がった食事の内容は非公開である。
名古屋ホテル業界の市場と動向~Market~
1990年頃までの名古屋市内のラグジュアリーホテルは部屋数をできるだけ多くして売上を上げようという経営をしており、部屋は比較的小さかった。しかし1989年のヒルトン名古屋開業以降、外資系ホテルを踏襲して客室を拡大しフルサービスを提供するように変容した。当ホテルも当初505室あった客室を統合して客室をサイズアップし、現在は277室になっている。スイートルームを持っているホテル、国際級の客室を持っているホテルは名古屋市内に5~6軒程度しかなく、当地に国際級のMICE物件や会議を行政が誘致しようとしても受け入れるホテルの部屋数が足りないという課題があった。そこで、国際会議や海外富裕層の誘致に向け、行政支援が行われる事になった。客室の平均面積が45m2以上などの一定基準を満たせば、愛知県と名古屋市でそれぞれ10億円ずつの補助を受けられる。それに対応して建設プロジェクトが進められたホテルには、2023年7月にオープンしたTIADをはじめ、2025年開業予定のエスパシオナゴヤキャッスル(仮称)などがある。
我々の業界は社会環境に大きな影響を受ける。2020年4月の緊急事態宣言以降、日本の外国人宿泊客は激減、厳しい状況が続いた。しかし、アジア圏、欧米圏ともに、次に渡航したいと思う国の第1位は日本である。また、名古屋には見るものがないといわれるが、TIME誌の「2023年世界の最も素晴らしい場所50選」に日本の都市では京都と名古屋だけが選ばれた。ジブリパークや犬山の有楽園などの観光スポットとして愛知県や名古屋市は注目されている。ようやく昨年秋ごろから宿泊客は増加してきた。この状態が続くことを願っている。
エスパシオエンタープライズ 革新への挑戦~Innovation~
2021年7月に名古屋観光ホテルは姉妹ホテルであったナゴヤキャッスルとともにホテル・料飲事業をエスパシオエンタープライズ(以下エスパシオ)に承継した。それぞれのホテルのオペレーションをエスパシオが一括して行っている。2つのハイグレードホテルの運営に特化し、メリットを出していく事が狙いである。これまでライバルであった2社が一緒になるとは全く想像していなかった。
「エスパシオ」はスペイン語で「宇宙」「空間」を意味しており、ラグジュアリーのその先へという想いが込められている。これまで行った事がないようなラグジュアリーの世界へいざなうということがブランドポリシーである。
2つのホテルが一緒になった事で企業理念であるミッション・ビジョン・バリュー(MVV)を早く浸透させ、マインドを1つにしていく目的でプロジェクトがスタートした。企業理念から経営指針も制定したが、最も重要なバリューは選出された若手スタッフ7名によるMVVチームが、ESPACIOのそれぞれの文字を使って7つのエスパシオルールを制定し、ボトムアップで行動指針を作成した。
この中の「Innovation」の取り組みについての詳細を説明したい。まずは、ホテルの9階から11階を改装し、タイムシェアリング販売を開始した。この特徴は30泊/年×5年のプランをはじめ宿泊を前売りすることにある。全室にミニキッチンや全自動洗濯機、やゆったり使えるユニットバスなどを完備し自宅と同じように使っていただける。高額な商品ではあるが、今後インバウンドが増え、ホテルの価格の上昇が予想されるなか、一定料金で利用できる、長い目で見ると大変お値打ちなプランとも言える。
ブライダル部門も方向性を明確にした。婚礼を機にこれからの百年をお付き合いしていくという想いで「伏見百年婚」をコンセプトにリスタートした。新郎新婦のニーズに合う演出を取り入れ、新たな婚礼を取り込んでいく。料理もプランナーと相談し、オリジナルを作っていく。総料理長の鈴木直也は世界料理オリンピックで金メダルを獲得しており、今までとは違った形でお客様に愛される料理を提供していきたい。神殿やブライダルサロンもリニューアルした。
レストラン部門も、リニューアルするとともに外部のシェフやソムリエを積極的に招聘し新たな提案に繋げている。新たにレストランも2店舗開店する予定だ。
また、「なごやTRIP」をテーマにした宿泊プランの販売を始め、当ホテルが旅の拠点となり、名古屋の魅力を更に訴求することを目指す。「有松絞りコンセプトルームで過ごす1日」や家康ゆかりの地を巡る「岡崎・名古屋満喫宿泊プラン」など当地の伝統工芸や観光スポットなどにフォーカスして様々なプランを用意している。
なお、「エスパシオナゴヤキャッスル(仮称)」は2025年春には開業予定で工事も順調である。
最後に
2023年度のマーケティングテーマは「つなぐ」である。名古屋観光ホテルは観光・文化・ビジネスを「つなぐ」、グループ企業・社員とその家族を「つなぐ」など、絶えず「つなぐ」拠点となり続け、今後も名古屋の地で誰からも愛されるホテルを目指していきたい。
【新会員自己紹介】
【株式会社伊藤建築設計事務所】
〒460-0002 名古屋市中区丸の内一丁目15-15
URL:http://www.ito-aei.co.jp
会社紹介:
弊社は1967年12月創業の建築設計事務所(総合事務所)です。本社兼名古屋事務所に45名ほど、東京事務所に25名ほど所属しています。仕事の受注比率は官:民=25:75です。扱う設計累計は個人住宅・集合住宅(マンション)を除く、全ての設計監理を受注しています。また、街づくりを専門に扱う部署もあります。事務所内に建築意匠・構造・設備スタッフが同一フロアに在籍しており、スピーディーで多様な提案・決定を心がけています。
個人照会:
趣味は散歩、テニス、ゴルフ、水彩画です。
【東洋建設株式会社名古屋支店】
〒460-0003 名古屋市中区錦2-12-14MANHYO第一ビル5階
URL:https://www.toyo-const.co.jp
東洋建設株式会社 名古屋支店長の小玉でございます。
出身地は、道後温泉で有名な愛媛県松山市です。
大学時代は、北陸 金沢で4年間を過ごし、1987年に東洋建設に入社しました。
入社以来、関西方面、中国方面、東北方面また中国大連等にて、工事最前線の現場にて幅広い分野で多種多様な経験を積んでまいりました。
ここ、名古屋での生活は、今年で9年目となります。
当社は、兵庫県西宮市鳴尾浜地先を埋立て工業港を建設することを目的として、南満州鉄道と山下汽船との共同出資により1929年に設立された会社です。
現在、来る2029年に、創業100周年を迎えるべく、海上土木をはじめとした国内土木事業、国内建築事業、洋上風力事業、フィリピン、インドネシア、ケニア等での海外事業を展開しております。
他産業同様に建設業を取り巻く環境は、働き方改革の課題や国際的地政学的なリスクもありますが、まずは、多くのお客様からの御下命をいただいた案件に対し、安全最優先にて最適な品質の製品を工期内にお収めすることと思っております。
どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。
【株式会社御幸ビルディング】
〒460-0003 名古屋市中区錦三丁目20番27号
URL:http://www.miyuki-re.jp/
【会社紹介】
御幸ビルディングは東京・名古屋・大阪の三大都市圏を中心にオフィスビル、ホテル、マンションを保有し、不動産賃貸業を展開しております。
その源流は東海銀行(現三菱UFJ銀行)系の不動産会社として1956年に設立された桜橋ビルディングで、その後1978年に設立された御幸ビルディング等の系列会社の統合等を経て60年超の歴史を刻んできました。2009年に三菱UFJリース(現三菱HCキャピタル)のグループ会社(連結子会社)になり現在に至っています。
経営ビジョンとして「快適空間MIYUKI!―環境、社会、全てのステークホルダーの持続的発展に積極的に貢献していく―」を掲げています。具体的には、お客様の満足度が高い会社、働く人の満足度が高い会社、安定して企業価値を高めていく会社、社会的責任に真摯に向き合う会社であり続けたいと考えております。宜しくお願いいたします。
【自己紹介】
4年前まで三菱UFJリースの中部エリア担当として7年間名古屋に駐在し、うち3年間ほど中部経済同友会に入会させていただき、その際も産業懇談会木曜グループに所属していましたので、所謂「出戻り」となります。
私の生まれは兵庫県西宮、育ちは福岡、大学は京都、社会人となって最初は関西、その後は名古屋・東京を行ったり来たりです。自宅は千葉なのですが、4年前までの7年間、その前を含めると通算で17年間名古屋に単身赴任していました。今は東京と名古屋を新幹線で往復する生活です。
音楽(ギターが好きでシカゴブルースのバンドをやっていましたがジャンルは何でも、最近ではウクレレにもチャレンジ)とお酒(日本酒、洋酒、ワイン他何でも)が大好きで、名古屋・東京を中心に音楽仲間や酒飲み仲間がどんどん増え、それが今ではかけがえのない宝物になっています。長く音楽・お酒を楽しむためには健康寿命を延ばすのが大事と考え一念発起して100kmウォーキングやマラソン(ハーフ、フル)にも何度か参加してきました。これからも公私共に色んなことにチャレンジしていきたいと思います。
大好きな名古屋の発展に少しでも貢献できたらと思っていますので、宜しくお願いいたします。
【9月度産業懇談会のご案内】
9月度産業懇談会は、下記のとおり開催いたします。
定員は引き続き、先着40名を目安に運営します。
何卒、ご理解・ご協力賜りますようよろしくお願い申し上げます。
会合にご参加いただける際は、手洗い、積極的なアルコール消毒の励行にご協力ください。発熱の症状がみられるなど体調不良の方は、ご参加をお控えいただきますようお願いいたします。
グループ名 | 世話人 | 開催日時 | テーマ・スピーカー | 集合場所 |
---|---|---|---|---|
火曜グループ |
富田 茂 |
9月12日(火) |
『サーキュラーエコノミーの時代を迎えて マテリアルプラスチックリサイクルの現状と課題』 |
名古屋観光 |
水曜第1グループ |
淺井博司 |
9月20日(水) |
『ニッチトップ企業:表示灯のビジネスモデル~その現状と将来~』 |
名古屋観光 |
水曜第2グループ |
大倉偉作 |
9月13日(水) |
『東急建設の環境への取り組み』(仮題) |
若宮の杜 |
木曜グループ |
河村嘉男 |
9月7日(木) |
『経営者が知っておくべきIT最新トレンド-チャットGPTの活用からサイバー攻撃対策まで-』(仮題) |
名古屋観光 |
【産業懇談会4グループ合同懇親会】
恒例の4グループ合同懇親会について下記の通りご案内申し上げます。
今回は水曜第1グループの企画により、室内楽集団レーベインムジークによる演奏会を開催いたします。レーベインムジークは、ピアニストの桑野郁子氏を代表にアカデミックな作品解釈を理念として2017年に結成され、東海地方の演奏家を中心に、様々な演奏会を企画し、高い演奏水準による「クラシック音楽の普及」を目指して活動を展開されています。今回は、元名古屋フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター北垣紀子氏によるトークとともに2重奏から8重奏まで多彩な曲目を演奏いただき、クラシック音楽の重要なジャンルの1つである「室内楽」の魅力を堪能していただきます。
ぜひ多数のご出席をいただきますようお願い申し上げます。
- 日時
- 令和5年10月4日(水) 17:30~20:00
- 場所
- 名古屋観光ホテル3階 那古の間
- 会費
- お一人 12,000円(後日請求させていただきます)
- スケジュール
- 17:30~18:30 室内楽集団レーベインムジーク公演
元名フィルコンサートマスター北垣紀子氏のトークを織り交ぜながら、「ピアノ、ヴァイオリンによる2重奏」、「ピアノ、ヴァイオリン、チェロによる3重奏」、「弦楽器による4重奏」、「弦楽器による8重奏」をお楽しみいただきます。 - 18:40~20:00 懇親会(着席ビュッフェの予定)
- 17:30~18:30 室内楽集団レーベインムジーク公演
- その他
- お申し込みは9月20日(水)までに会員専用ページよりご登録をお願いいたします。お申し込み後9月29日(金)までにお取り消しのお申し出なくご欠席の場合は、会費を申し受けますので悪しからずご了承ください。
【コラム】
コラム1 【さっかの散歩道】 No.62
長瀬電気工業株式会社
代表取締役 屬 ゆみ子
『 おてんばケルナー 』
八月初旬、早めの夏休暇を取って畑の草刈りに出かけた。
セントレアから7月~9月末までしか飛ばない旭川直行便でお昼前に空港到着。名古屋も北海道も、お盆前だというのに空港は家族連れでごった返し、レンタカーに至っては車の在庫が全くなく、今回の車両も1か月半前にかろうじてライトバンが残っていたので予約ができた。とはいえ、私にとっては大助かりで、草刈り機「マサオ」や畑の器具を乗せるのにもってこいの上、バンなので作業着と長靴で多少泥汚れになっても作業車だからと言い訳が立つ。これがお盆あたりになると軽トラすらなくなるらしく、やはり北の大地は車なしでは厳しいようだ。
空港でピックアップしたスーツケースには、作業着にプラスしてワンピースとハイヒールが入っている。今回はかねてからお約束の、中富良野町長との面談予定もあったので、さすがに長靴と野良着で町長室に伺うのはと、サラリーマンらしい服も用意し荷物はやや多め。
空港から畑まではほぼ一本道で30分。平地は小雨だが、途中峠は土砂降りらしいので天候の回復を待つのも兼ねて、昼食がてら美瑛の道の駅に寄り道することにした。
北海道といえばスープカレーが有名で、上川~富良野では夏のカレーフェス真最中。何を隠そう私、スープカレーというものを食したことがなかったので、これを機に食べてみることにした。おすすめはカレーうどん、といっても「つけうどん」で、地元の焼き野菜がかわいらしく盛られ、オマケに牛乳がついている。味わい…というよりインスタ流行りの産物なのかな。私の感想を正直に申し上げると、カレールーは和風なのかインド風なのか洋風なのかはっきりしない感じがした。で、なぜだか富良野界隈にはネパール料理店系のカレー屋さんが多く、もしかしてそこから昨今のカレーの流れができたのだろうか…ネパールカレーならトマトと豆だけど、牛乳加えてスープ状にしてる?あくまで私見ですが。う~ん、蕎麦屋のカレーうどんのほうがコクがあって私好み。
止むことのない雨の中、国道をひた走りつつ、途中ホームセンターで草刈り機用の混合ガソリンを購入し(これが後に感動話になるのだがそれはまたの機会に)、1か月ぶりの畑に到着。雨のせいか伸び放題の雑草の中で、ブドウの木はすくすく成長している。一本一本挨拶がてら見て回ると、10本ほどのケルナーが結実している。嬉しくて隣のオーナーに「今年の実はワインにできないから干しブドウにでもしようかと」とウキウキ話すと「初年の実は落としたほうがええんでないかい?葡萄のことはよう分からんけど果樹は大体そうする、でないと向こう3年実がつかん」接ぎ木2年目なら可能性ありと小耳にはさんでいたので、確認のため山形の接ぎ木師に確認の電話をする~山形弁は電話では結構リスニング力を要するのだが、大体こんな感じ「1年目だから実は落としたほうがいいい、ケルナーはおてんばなので土と相性がいいと勢い実をつけるけど、10本も結実したということは余程土に合ったんだろう、でもまあ、記念に1本くらい残しておくのもいいかも」やはりプロの言うことは正しい。とりあえず、2房ついていた木だけ1房にして、あとは全部落とすことにした。完熟したらphと糖度を計って、そのあと干しブドウにしよう。
畑の草刈りを一通り終え、町長のところに伺う。どうやらその日は8月末にある町長選挙の候補者の説明会があるらしく、当然現役町長は出馬するのだが、他の候補者が出馬して選挙モードに突入するか否かの大事な日(ちなみに前回は無投票当選)。そんなさ中の訪問だったのだが、聞くところによると、つい先月末に57歳にしてお子さんを授かったそう~満面の笑顔で迎えてくださった。
急遽同席をお願いすることになった、畑をお借りしている山澤農場のオーナーとは旧知の仲ということで、私が一昨年の秋に「ワイナリー作りたい!」と言ってオーナーのところに飛び込んでいった時の話から「そこまで本気とは思わんかった」と、なんとか小さいながらも形になってきた畑のことをご紹介くださった。
ここに至るまで私自身、実は何度か役場に足を運んでは落ち込んで帰っていたのだというと、町長はそんな経緯もご存じで、力になれることがあったらと、心強い申し入れ。私がイメージするワイナリーの形をお話しすると、近くの廃校あとの利用や、宿泊施設の増設、それを通して人が回遊するルートが作れたらと町のプランもお話しくださった。そこにうまくジョイントできる畑になれたら素敵だな~。
中富良野町は、場所柄か美瑛~富良野ルートの通過点で、そこに人が泊り飲食をする施設が少ないので、これから観光の町としてのブランド化に力を注いでいきたいとのこと。手始めにJALと提携してラグジュアリーなオーベルジュを建てるのだそうだ。海外の観光客が足早に観光バスで駆け抜ける町でなくなる日もやがて来るのだろう。
とはいえ驚いたのは、バスにも乗らず各駅ローカル電車でやってきて、観光名所のラベンダー畑まで2キロの道のりを豪雨だろうが雹だろうが合羽を着て歩いている人の多さ。地元の人は殆ど車移動で歩かないので、かなり奇異に映るらしい。ならばなおさら、途中でお茶したり買い物したりで休憩できる場所があるといいのだが、通年の利用者が少ないのがネックになるようだ。
参考になるかどうかわからないが、ヨーロッパのスキーリゾートは冬4か月、夏の避暑4か月間しかオープンしないので、テナントもコンドミニアムもすべてオーナー制をとっているのだというお話もさせていただいた。もちろんうちの畑も11月末に冬支度が終わったら、年越して雪解け4月まで無人となるが、その間はライブカメラでも取り付けて、いつでも誰でも畑の雪景色と野生動物の生態をのぞき見できるようにしようと考えている。
先走る、おてんばな葡萄の新芽や実が、野生動物に荒らされたりしないよう、ちゃんと見守りつつ。
コラム2 【師、曰く】 No.27
妹尾 鷹幸(ペンネーム)
(株式会社構造計画研究所 名古屋支社長 妹尾(せのお) 義之)
ペンネームは、恩師、田坂広志先生の多重人格マネジメント、作家人格の名。心に鳴り響く言葉を今回も一筆。
『 別離 』
今月初め、横浜に住む叔父が亡くなった。母の三人の弟の長兄で、祖父も叔父さんも皆優しかった。月遅れ盆は彼岸の祖父や祖母、叔父さん方々のことを思い出し、お陰様で、今こうして此岸に生きられることに、感謝した。
思えば、此岸、この現世に生きている以上、様々な別れがある。死別だけではない。生きている者同士でも、多くの別れがある。私自身も多くの別れの上に今の自分が在る。高3の時、いわゆるDVだった父と決別し家を出た。その数年後、母はようやく父と離婚できた。仲の良かった多くの友達とも、互いの進路が違えば、多くの別れがあった。人を救えるなどという傲慢さに気づかぬ未熟者が結婚すれば、自ずと非力さに破綻し、離婚もした。恋愛を振り返っても、未熟者ゆえに思いやりが足りず傷つけてしまったと悔いつつ、幾つかの別れを経験した。職場の同僚も、上長との人間関係に悩み去っていった方達が少なからず居た。振り返れば、言い尽くされた言葉だが、人生は出会いの数だけ別れもある。その人への愛情が深ければ深い程、別れを悲しみ、落ち込み、時に執着したり、逆に忘れようとしたりする。しかし、人と人との出会いはご縁。縁あって出会った人と人との別れにおいて、とても大切なことを、師に学ばせて頂いた。
師、曰く『愛情とは、関係を絶たぬことである』
この言葉は、臨床心理学の河合隼人さんの言葉だそうだ。田坂先生は、かつて民間企業での部長時代、話し理解し合おうとしたものの、ドアをバタンと閉じ去っていった部下が居たという。理解し合えず去った部下を、田坂先生は邪険に思うどころか、彼に相応しい道へ導きたまえと、時に思い出し祈ったという。そして、10年後、独立した彼と偶然の再会。彼は、あの頃の自分は未熟だったと、今の自分にはあの時の田坂部長の言葉が良くわかると、和解された。朝まで生テレビにも、一緒に出演されたそうだ。たとえ別れても、相手を忘れるのではなく、心の中で時に思い出し、その人にとっての良き人生を祈ることが、関係を絶たぬことだと言われる。確かに、愛情の裏返しは無関心。心で相手の良き人生を祈ることは、愛情に他ならない。
田坂先生から様々な学びを頂いてからは、一人一人とのご縁を大切に、一期一会を意識するようになった。そして、かつての別れも、心の中で和解することができ、今こうして在ることへの感謝と共に、その人の良き道を祈るようになった。幸い物理的に離れても、今はネットで繋がれる時代、時に言葉を交わす関係の再会も多くあり、有難いことだ。無論、会えなくなった大切な人には、今も、心から祈っている。その大切な人にとって、最良の道を歩めるよう、導きたまえと。私はその人のお蔭で、少し成長させて頂き、今が在るのだから。修行は続くよ、どこまでも。最後までお読み頂き、ありがとうございました。