コラム2 【師、曰く】 No.6
妹尾 鷹幸(ペンネーム)
(株式会社構造計画研究所 名古屋支社長 妹尾(せのお) 義之)
ペンネームは、恩師、田坂広志先生の多重人格マネジメントの応用、作家人格の名。心に鳴り響く言葉を、今回も一筆。
『 行きつ戻りつ 』
このコラムで取り上げた師の極上の言霊。「小さなエゴ」、「志、使命」、「人生の三つの真実」、「不動心」、「解釈力」、その中の一つでも真に体得できたなら、今見ている世界とは全く違う世界が見えるに、違いない。登山の途中で垣間見る風景は、時に素晴らしい絶景だが、やはり頂上に辿り着いたとき、それ以上高い頂がない場所で見渡す風景は、息をのむほど絶景だ。人生という山登りで、至高の言霊を一つでも真に体現できたとき、絶景が見えるのだろう。
四年と半年、恩師との一期一会の真剣勝負である講義を聴講し、日々の実践を通して、私はかなり体得できているのではないかと思っていた。心に巣食う小さなエゴを静かに見つめる、賢明なるもう一人の自分も居る。高知市の人々を南海トラフ地震のとき、通信途絶から一人でも多く救うべく、幾度も頓挫しかけたスマホdeリレー®を私が導入に導かねばという使命感。予期せぬ不本意なことに動揺しても、ホームポジションに戻ることができる不動心。そして、それがなぜ自分の身に降りかかってきたのか、その意味を肯定的に捉える解釈力。今を生き切っていると感じていた。過酷な歩みを乗り越えた私だからこそ、体得できた、悟ることができた、そう心密やかに思っていた。このまま前進し、成長してゆけることを、疑いもしなかった。
それが大いなる過信であることに気付けなかった。不本意なあることが降りかかり、悪い時には悪いことが重なるもので、さらに追い打ちをかけられ、巣食っていた小さなエゴが蠢き出した。何故、何ゆえ私が・・・と、過去を悔い未来を憂いて、今を生き切る心掛けが疎かになり、平常心を取り戻すこともままならず、降りかかった不運の顔をした天啓さえ恨んだ。悟ったなど奢り高ぶりの傲慢であり、まだまだ修行中であると自らを諫める「謙虚さ」に欠けていた。未熟者は、傲慢である。
師、曰く 『大悟数回、小悟数知れず』 と言われる。偉大な賢人すら、大いなる真理を悟ったと思っても、まだまだ真の体得には至らず、悟ったつもりの大悟を幾度も繰り返す。些細な悟りともなれば、悟ったつもりになった数は、数え切れない程だと言われる。悟った、体得したと思っても、『行きつ戻りつ』で、何度も揺り戻しがくるということだ。百歩進んだと思っても、九十九歩後退してしまうことだってある。しかし、一歩、前進できているではないかと。それは、行きつ戻りつだから、後退しても仕方ないのだという、甘えを許容するものではない。どんなに悟ったと感じても、必ず『行きつ戻りつ』がある、ゆえに、悟ったという思い込み「つもり」は、傲慢さだと自覚し、常に生涯修行の身だという「謙虚」な心で、日々実践あるのみという教えなのだとわかった。傲慢さを諫める言霊なのだ。修行は続くよ、どこまでも。 最後までお読み頂き、ありがとうございました。
(東山動植物園にて) |