■生い立ち〜こうして映画監督になった〜
Q:名古屋で生まれ、ニューヨークへ渡った経緯とは?
私は、名古屋市熱田区で生まれたが、若い頃は自分の町を毛嫌いしていた。熱田神宮でお参りしている大人たちをみて、「ああいう大人にはなりたくない・・・」と思っていた。高校卒業後、俳優を目指し親の反対を押し切り上京した。19歳の時に松田優作さんと出会い、「お前ぐらいの年齢だったら、俺ならニューヨークに行って頑張る」と言われ、英語も分からないまま一文無しでニューヨークに渡った。オフブロードウェイで小さな役をやりながら、オーディションを受けたり、小さな舞台で戯曲を書いて自分で演じるといった生活を送っていた。当時のアジア人は、サラリーマンややくざの役しかなかった。映画「ロッキー」のように自分で脚本を書かなければ、アジア人のイメージを破ることはできないと思った。そこで、30代になって脚本を書き始め、33歳の時にベトナム人のギャングに出会ったことがきっかけで、ベトナム戦争後にアメリカに渡ったベトナム少年たちの姿を描いた『ROAD KILL』の脚本を書いた。その脚本はカンヌ映画祭でアメリカ代表として招待されたが、未だに映画になっていない。
Q:写真家になった経緯とは?
脚本を書くようになってから、映画の裏方に興味をもつようになった。絵を描くのは苦手なので、写真を撮って絵コンテの代わりに多くの映画会社を回った。アジア人を主役にした映画を作りたかったが、採用してくれる会社はなかった。そうこうしているうちに写真家として評価され、世界各国の美術館や著名なコレクターに収集されるようになった。自分自身が演じるよりも、人の魅力を引き出す仕事の方が向いていると感じるようになった。
Q:映画監督になった経緯や、制作した作品とは?
もともと映画監督をやりたいと思っていたが、ある時、写真のコレクターが資金を提供してくれることになり2014年に初監督映画「ブルー・バタフライ」を制作した。その後、高倉健さんのドキュメンタリー映画「健さん」の監督オファーを受けた。高倉健といえば私の心のヒーローであり、80年代に海外に渡って苦しかった時、彼の任侠映画を見て乗り越えてきた。しかし世界で「KEN」といえば、高倉健よりも渡辺謙の方が知られている。この映画で「日本の男・高倉健」の存在を世界に知らしめたいと思った。プロデューサーは、私が企画した錚々たるキャスティングに映画の実現を心配したが、私は、“KEN TAKAKURA”の凄さを知る世界の一流たちにも健さんを語って欲しいと思った。マイケル・ダグラスに出演してもらうのに40通の手紙を書き、マーティン・スコセッシの出演に1年を要したが、最後は快く応じてくれた。その結果、2016年のモントリオール世界映画祭でワールド・ドキュメンタリー部門・最優秀作品賞を受賞することができた。映画「ブルー・バタフライ」に感動して私に手紙をくれた樹木希林さんが2019年に企画した映画「エリカ38」でも監督・脚本を務め、主演の浅田美代子さんがロンドン・イーストアジア映画祭・審査員特別賞を受賞した。
■映画『名も無い日』
Q:この映画制作のきっかけとは?
ニューヨークで写真家として認められ、念願だった映画監督として「ブルー・バタフライ」の長編映画の撮影をしていた矢先に、弟が亡くなったと悲報が入った。帰国して弟の生活の跡を目の当たりにした時、弟に家のすべてを押し付けてきたことを考え罪悪感に苛まれた。今、自分が向き合っていることは実はもっと根本的なこと、普遍的なものではないかと思い始めた。人間には一つの共通項がある。この世に生まれてくること、そして死んでいくこと。それは好き嫌いの問題ではなく、人間にとって避けられないことである。そんな弟の死が、自分の中で突然一本の木の幹のようなものとして生え始めたことがこの映画を制作するきっかけとなった。
Q:名も無い日とはどういう意味か?
名も無い日とは、孤独死とか、戦争とか、いつ亡くなったかわからない人の命日を指す。現在、コロナという目に見えない敵が立ちはだかる中、生と死というものが他人事ではなく、年齢別でもなく、背中合わせに皆同等にある。そんなことを体感しながら日々過ぎていく。この映画は、私の私小説から始まったものであるが、これを見る皆さんのストーリーでもあると思っている。この映画を観て、今やらなければならないことは何なのか自問して欲しいと思った。
Q:制作でこだわったこととは?
この映画の企画を持って映画会社を回り、どの会社も興味を示してくれたが、自分の中でどうしても納得できないことが2つあった。1つが主人公の年齢設定を変えてアイドルを使ってできないかということであった。このシリアスなテーマを俗っぽい映画にしたくなかった。2つ目が東京を舞台に変えられないかということだった。東京で撮影すれば、キャストの予定も合わせやすく、費用も抑えられるからだ。
そんな時に声をかけてくれたのが、地元の同級生だった。彼が立ち上がってくれたおかげで、映画と全く縁のなかった4人が完成まで導いてくれた。この映画は奇跡の連続で出来上がった映画なのである。(そのうちの1人が本日聞き手で登壇している山口氏)
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Q:全編名古屋での撮影にこだわった理由とは?
名古屋での撮影にこだわったのは、私の故郷だからだ。言葉の持つ“音”は音楽そのもの、その場所に息づく名古屋弁をきちんと表現したかった。熱田・名古屋を離れて40年間という時を取り戻したかったのかもしれない。この映画で刻みたい風景があった。それは明治神宮でも青山墓地でも神田川でもなく、熱田神宮であり平和公園であり堀川だった。熱田神宮の熱田まつり(尚武祭)は、自分の小さい頃の原風景であり、熱田まつりの6月5日の1週間前の5月28日に、東海3県で先行上映することにした。熱田神宮には劇映画として初めてカメラが入った。
Q:主演の永瀬正敏氏について
永瀬正敏さんは自分の細胞までその役に変えてしまうくらいずば抜けた集中力がある俳優である。その一瞬に込められた魂は明鏡止水の如く表現できるのだと思う。彼は写真家でもあるということを別の映画で知ったが、カメラを構えた姿がひときわ美しい。
Q:この映画は説明が少ないと言われるが?
私は映画に説明は不要であると考えている。テレビ番組は、ご飯を食べながらでも話が分かるように制作しているが、映画は、観客一人一人に投げかける無言の対話であると思っている。この映画では主人公が写真家であるという説明はどこにもしていない。
■最後に
Q:コロナ禍での映画の意義とは?
コロナ禍で劇場にいく機会が減っているが、こんなご時世だからこそ映画をはじめ文化が人の心に刺さると思っている。そうでなければ文化はなくなってしまう。DVDやスマホでは得られない音と画のパワーを是非とも映画館で体感してもらいたい。
映画館でのクラスター発生は、世界中で1件も報告されていない。安心して映画館に足を運んでいただきたいと思う。
Q:名古屋での今後の活動とは?
名古屋市は都市ブランド・イメージ調査で「行きたい都市」「魅力のある都市」で最下位となったが、これほど名古屋満載の映画はない。映画を次世代に残せるような「名古屋国際映画祭」をやりたいと思っている。子供たちが、自分たちは名古屋にいても、こういう世界とつながれるのだと思ってもらえるように活動していきたい。
*映画「名も無い日」
5月28日(金)より東海3県(愛知県・三重県・岐阜県)先行上映中
6月11日(金)より全国ロードショー
*事務局より
ニューヨークを拠点に写真家としても活躍する名古屋市熱田区出身の日比遊一監督から、名古屋での撮影にこだわって制作した映画にかける想いを熱く語っていただきました。この映画は、日比監督ご自身の体験を映画化したものですが、名古屋の魅力を発信しようと思いを同じくする地元の4人が立ち上がってできた映画でもあります。
ご興味のある方は、ぜひ映画館でご覧ください。