産業懇談会【メールマガジン 産懇宅配便】 第228号 2021.5.31 発行

メールマガジン■産懇宅配便■

令和3年5月度(第228号) 目次
【3年4月度 産業懇談会(火曜G)模様】 4月13日(火) 12時00分〜14時00分
【3年4月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】 4月14日(水) 12時00分〜14時00分
【3年4月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】 4月21日(水) 12時30分〜14時00分
【3年5月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】 5月19日(水) 12時30分〜14時00分
【新会員自己紹介】
飯田 容子氏

株式会社ル・ウエスト 代表取締役社長

白石 明氏

西松建設株式会社 中部支店 執行役員支店長

原 直人氏

あいおいニッセイ同和損害保険株式会社 執行役員 中部地域リテール担当

井戸 康博氏

株式会社ベネスト 取締役

児玉 貴紀氏 ネオファースト生命保険株式会社 中部営業部 部長
宇高 秀樹氏 オリックス株式会社 名古屋支店 支店長
江島 まゆみ氏 全日本空輸株式会社 名古屋支店長
北 昌秀氏 KUNIX株式会社 代表取締役 執行役員社長兼CEO
松岡 直之氏 KUNIX株式会社 上級執行役員副社長 経営管理本部長兼CFO
【6月度産業懇談会のご案内】
【7月度産業懇談会のご案内】
【コラム】
コラム1 【さっかの散歩道】 No.35
コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.151
【お知らせ】
【3年4月度 産業懇談会(火曜G)模様】

テーマ: 『 小説やらまいか豊田佐吉傳 』


日  時:令和3年4月13日(火) 12時00分〜14時00分
場  所:若宮の杜 迎賓館(昼食会場 桜の間/懇談会会場 橘の間)
参加者:23名

スピーカー:
作家 北路 透(きたみち とおる)
(社会保険労務士法人北見事務所 所長 北見 昌朗 氏)

北路 透氏

■北路透
 「北路透」という作家名は、「歴史は廻る。いつか来た道を通る」という想いで名付けた。
 中学の頃、所属していた歴史クラブ活動の一環で、清州貝塚にて、発掘作業をしていた。その時、土器を発掘し、歯ブラシで一生懸命磨いたところ、なんとぴったり当てはまり、顧問の教師にたいそう褒められた。「褒める」というのは非常に影響力が大きいもので、それ以来、日本史が大好きになった。
 その後、中部の経済新聞記者になったが、取材に行っても歴史的バックグラウンドが気になり、結局35歳で転職し、作家として郷土の偉人を掘り起こす活動に取り組んでいる。

■豊田佐吉と織機との出会い
 人生は最初が肝心で、実は、自動織機の生みの親、豊田佐吉も同じなのである。
 佐吉は坂本竜馬が暗殺された慶應3年(1867年)に、大工名工の伊吉と、ゑいの子供として生まれた。12歳のある時、母親ゑいの仕事道具である織機が壊れ、大人でも難しい修理を、佐吉が一人でやり遂げた。この時、ゑいは喜んで「さきっちゃん、ありがとう。お前は本当にええ子だ」と褒めた。これが豊田佐吉の原点である。それ以降、佐吉は織機の発明に生きることとなる。

■木製人力織機の開発
 18歳で佐吉は発明家となる決意をするが、父親の伊吉に「大工の倅は、大工になれ」と言われる。発明をしても、「遊んどるんか」と言われ、取っ組み合いの喧嘩になった。当時、織機を触るのは女性であったので、織機の開発をしていると、周囲から奇人変人と言われた。
 明治23年、木製の人力織機を開発し、浅草で機屋を開業したものの、佐吉には商売の才能がなく、23歳で結局破産寸前になり、親元に戻った。開発した人力織機は、従来織機の改良版程度であった。

■自動織機開発とトヨタの発展
 母親ゑいの励ましを受けながら、佐吉は発明を続けた。今度は人力ではなく、蒸気で動く、本当の動力織機であった。発明には資金が必要で、資金集めに奔走した。
 当時は日清戦争真っただ中で、日本は軍艦を買うために外貨が必要であった。日本が輸出できるものは、綿布か陶磁器しかなく、織機が産業となりつつある時代であった。
 最新人力織機を導入したばかりの、半田の石川藤八を突然訪問し、織機産業の重要性と、織機の発明を通じて、日本の役に立ちたいと、藤八を口説いた。
 無事半田で発明に成功したものの、共同出資者の伊藤久八にお金を持ち逃げされ、破産寸前になる。その時助けにきたのが、石川藤八のもとで働いていた女中の浅子であった。明治28年、浅子と共同で、今のテレビ塔南側の宝町に、豊田商店を創業した。ここが、トヨタ創業の地である。
 半田の工場で織った製品が、三井物産の藤野亀之助の目に留まった。織りムラもなく、まるで外国製のような綿布に驚き、東京にまで呼ばれるようになる。渋澤栄一までもが「日本を救う発明だよ、豊田君!」と言うほど、佐吉は時の人となっていった。
 明治35年、名前を豊田商會に変更し、武平町工場を建設し、織機の量産を開始した。
 佐吉は開発面では天才的だが、商売の才能はなく、39歳の時、いよいよ豊田商會は資金難に陥いる。名古屋銀行の中田支店長が、救済案を持って佐吉を訪れた。鷺田良希という大阪商人が出資し、彼を社長とし、豊田式織機という会社を作れば、借財を肩代わりするという案だった。だたし、佐吉は常務で、特許は全て譲渡するのを条件である。佐吉も最初は拒否したが、他になす術もなく、最終的に救済案を受け入れることとなった。
 設立当初は、鷺田も「発明は国家事業だ。必要な資金はなんぼでも出す」と言っていた。しかし、創業3年目、豊田式織機が経営不振に陥ると、鷺田が、「社員の心が、開発にばかり向くのが経営不振の原因だ」と、佐吉の辞職を進言した。
 辞職後、佐吉は失意のうちにアメリカ視察に行く。アメリカの織機を見て、自分の発明品の方が優れていると、自信を取り戻し、「やらまいか!」と、今後は国家のために働くことを誓ったのである。「やらまいか」は、湖西弁で、名古屋弁で「やろまい」である。
 そして明治44年、大正元年。大手資本家の手を借りずに、自力経営にて、栄生に織布工場を建てた。ここから世界のトヨタの自力経営の時代が始まる。

■海外(上海)進出
 第1次世界大戦でイギリスからの輸出がストップし、日本の輸出が増加したことにより、日本の紡績工場が利益を出すようになる。大正8年、佐吉は、上海に栄生同様の工場を建設しようと計画するが、浅子や、婿養子の利三郎などの大反対を受ける。
 当時は重要なことは料亭で決める時代であり、この時も、現在の錦三丁目、名古屋ガーデンパレスの北通りにあった、料亭弥生で話し合いの場が設けられた。この時、佐吉は料亭弥生の障子をあけて、「障子を開けてみよ。外は広いぞ!」と名言を残す。弟の平吉は、すっと立ち上がり「兄ちゃが作った会社や!みんな承知せよ!」と説き伏せ、上海進出が決定した。番頭の西川秋次が上海工場立ち上げを見事に成功させた。

 ここからが、皆さんがよく知っているトヨタの発展の歴史であろう。


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【3年4月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】

テーマ: 『 「不思議の国イラン」「中国食紀行」〜駐在の経験から語ります〜 』


日  時:令和3年4月14日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:若宮の杜 迎賓館(昼食会場 桜の間/懇談会会場 橘の間)
参加者:25

スピーカー:
中村 亮介(なかむら りょうすけ)
東朋テクノロジー(株)
事業企画統括部長

中村 亮介氏

 自己紹介:前職(三菱商事1983〜2019年)において、一貫して石油・天然ガスの分野で勤務。その間1998年〜2001年は香港と広州を兼任で駐在、2008年〜2012年はイラン(テヘラン)駐在を経験した。その経験談から本日は発表をさせて頂く。

■『不思議の国イラン』〜歴史と文化〜
 イランのイメージは、一般の人であれば、怖い国、テロ国家、イスラム強硬派などであろうし、イスラム国やイラクと混同されることも多い。しかし、大きな誤解であり、中に入れば安全で、人も親密で、凶悪な犯罪も少ない。
 イラン国民は主にペルシャ民族で、イラン高原は大陸間の交通の要衝でメソポタミア文明のころから色々な民族の王朝が栄えた。紀元前6世紀からは、イラン民族の王朝が代々栄えたが、その後、「栄光と屈辱」の歴史を持つ。広大な領土を誇った古代ペルシャ王国や「王書」と呼ばれる叙事詩、ペルシアンブルーの陶磁器、ペルシャ絨毯などは栄光の象徴である。アラブ人とペルシャ人はよく間違えられるが、実は全く異なっておりアラブ人はアラビア半島を中心に居住し、肌は浅黒く、ベドウィンとして知られるように石油が開発されるまでは、遊牧民族として文化的にもそれほど深いものではない。一方イラン国民であるペルシャ人はロシア中央アジアから南下したスラブ系民族で、肌の色も白く、眼も青い。拝火教(ゾロアスター教)として知られる独自の宗教も発達した。ペルシャ人は、アラブ人に対して、「文化や芸術がない」と見下していたが、651年に、アラブ人であるイスラム教開祖ムハンマドがペルシャを征服した。この中で最大の屈辱は、支配時にゾロアスター教からイスラム教へ、ペルシャ文字からアラビア文字へ強制的に変更させられたことであった。

■『不思議の国イラン』〜国民の暮らし〜
 パーレビ国王時代(〜1979年)に国王は、近代化、西欧化を推進し、国民にはお酒や欧米ファッションが浸透したが、その後の革命での国王亡命により、国民は再び厳しいイスラムを強いられてしまった。しかし、一度、近代化や西欧文化を味わった国民はその味を忘れられず、今でも地下でのワイン密造や、酒の密輸が横行している。密造ワインは精製があまく、たいてい二日酔いになるが、皆自作のワインを自慢して客人に勧める。ノンアルコールビールも多く、ピーチ、レモン、ストロベリーなど多種多様あり、私自身もこれに密輸のウォッカを入れて飲んでいたが味は正直ビールとは呼べない。また、欧州向けの衛星放送の電波が辛うじて入るので、マンションの屋上にパラボラアンテナを違法に取り付けている家が多く、良く警察の取り締まりで撤去されるが、業者に頼めば直ぐに格安で設置してくれる。30年以上前ではあるが、イラン国営放送で、日本のドラマ「おしん」が放送され、大流行した。その影響もあり、又欧米列強に対峙して優秀な工業製品を作り出すことから、イラン人は日本人に対して敬意と、親しみを持っている。特に、中国人・韓国人と違い、礼儀正しい日本人に好感を抱いている。
 古くから政治、文化、交通の中心都市であった古都イスファハンは、16世紀末に繁栄し、かつて「世界の半分は、イスファハンにある」とまで称賛されていた。街の美しさは「イランの真珠」と例えられる。古代遺跡ペルセポリス等と共に、海外旅行に精通し、ありふれた旅先では満足しない日本人旅行通の訪問者も多い。現在のイランは、冷蔵庫でも車でもなんでも国産はあるが、すぐ壊れる。街中には殆どシシケバブという羊肉のバーべキュー料理店しかないが、個人宅では多彩な種類の料理がある。
 なお、イランのイスラム教の女性衣装は、髪をスカーフ程度で隠す必要がある。ただし、前髪は出すのはご法度で、前髪を出す女性は不良なのであるが、ファッションとしてこっそりと髪を出す女性もおり見かけるとその程度でもドキドキしたものである。

★その他、イランの政治体制、カスピ海や4千メートル級の山脈が生み出す豊かな自然、農業、文化、レクリエーションなども披露。

■『中国食紀行』〜食と文化〜
 日本の中華料理店は、1つの店内に、北京料理、広東料理、上海料理等が無節操に混在しているが、本場中国の食堂は店名に地域名や、省名を記載する例も多く、その場合は概ねその地域出身者が料理人であり、それ以外の地域の料理が出ることはすくない。その意味で、中国の料理店の看板は嘘をつかない。地域出身者が店舗を出していることが多く、同郷への強い愛着心が伺い知れる。

 中国人にとって、食は大人の文化であり、もてなす時の料理内容は、その人の教養、知識、金銭力などの力量を表現する場である。従い、接待時はホストのトップが料理を注文しなければならない。また、注文時には、天・地・水、暖・冷、彩り、香り、季節、シェフの得意料理など、バランスを考えるのがホストの仕事でありセットメニューを注文することはありえない。従って日本人がホストを行うのは本当は大変。しかし中国人でも注文が得意でない人間が居り、その時は、フロアマネージャーが強力な助っ人となる。自信の無いホストはマネージャーとその場で相談しながら、仕入れ・量・シェフの得意等々を勘案して、メニューを決めることが多い。同じ店でも、日本人が写真付き目メニューを見ながら自分で注文するより、良く知っている中国人が注文した方が何故か美味しい。なお、中国では接待時の注文指南の教科書も色々と出されている。その中の一例は、「豚は家庭料理的のためあまり勧められない、海鮮は1-2種類は欲しい、主食にお米は避けた方がよい、」等々細かな指南がある。またエビやカニは、死ぬと毒を出すと信じられており、基本的は生け簀で生きたものが多く提供される。

■『中国食紀行』〜中国各地の食の特徴〜
 中国内陸部では、海鮮の魚介類が採れないため、泥臭い淡水魚や肉などの食材を、酸味、辛味(辣)、しびれ(麻)、苦味、甘味、香り、塩味などの調味料を上手く使って、保存し、匂いを消して食べる料理法が進化した。又、日本と対照的に、大陸内陸部の乾燥・高温・多湿等の激しい気候から保存や食欲増進の為に強い味つけが発達した。
 湖南省、貴州省、重慶市、四川省などは、唐辛子を使った辛い料理が多く、唐辛子回廊とも言われる。唐辛子は、大航海時代の17世紀以降に、メキシコから伝わったとされている。冬は寒く、乾燥しているこれらの地域にとって、辛い料理は相性が良い。「辛いのは怖くない(不怕辣)、辛くないのが怖いのだ(怕不辣)」などという、辛い物自慢の言葉があるくらいだ。麻婆豆腐や、火鍋など、唐辛子(辣)と山椒(麻)を使った二種類の辛さの料理が特徴である。
 沿岸部は日本同様に比較的あっさりした味付け料理、西域東北部は塩味等の素朴なものが多い。
 中国八大料理と言われる有名料理があるが、その内、湖南、四川料理はそこからの出稼ぎ者も多く、全国に広まっている。
 特に、湖南省は、山地と水田が多く米どころである、また揚子江の上流に位置し、淡水魚も多く取れる。農村料理や、家庭料理も多く、日本人の嗜好に合う。
 東北は、中国屈指の穀倉地帯で、小麦、米などは国内トップの生産量であり、また極寒の地であるため、野菜はほぼ白菜のみである。料理の歴史も浅く、食文化もあまり豊ではない。
 現代中国料理は、香港の影響が強い。特に大戦後、香港が英国統治の下で発展したのと対照的に、中国大陸では、「食」よりも政治に注力してきた時代背景がある。清の滅亡後、中国大陸の一流の料理人は香港に流れ着き、香港で、それまで満漢全席等の形で集大成となった宮廷料理が発展した。フカヒレ、鮑、ナマコ、燕の巣など、高級料理を、香港の外国人や富裕層が育んでいった。時代が下って、1990年代、中国大陸が豊かになると、香港の高級料理が中国大陸に逆輸入された。北京ダックは今では香港が本場で皮にたれと中国パンをつけてその皮脂の旨味を味わうが、元々の北京式では皮と一緒に確りと身も提供される。
 明らかに香港式の方が洗練されている。

■『中国食紀行』〜酒と文化〜
 古来、抗争や策略が横行し、騙し・騙されの文化である中国では、商売相手は信用できる同族人や、同郷人中心であった。一方で、「遠来の客人は福を運んでくる」とも言われ、また近年のグローバル化の中、海外の新規顧客は大いに歓迎される。そういう場合は、形式的ではあるが、まずは新規の取引先とは、酒席を共にして、友人となった後に、取引が開始される。日本人は取引成立後にお礼の一席を持つが、中国は逆で、先に一席を持つ。又、中国人にとって酒は、友情の証であり、濃密な人間関係を確認する場である。酔いつぶれるということは、親友(好朋友)の証である。自分も中国人部下が実務をしてくれるので、主な仕事は、とにかく、先方のボス(老板)と酒を沢山呑み、酔いつぶれることであった。
 なお、中国の白酒は、アルコール度数が高いお酒で、飲みきれない場合は、口に含んで、おしぼりに出すなどの裏技や、乾杯インターネットと言って、大勢で一緒に乾杯して、自分だけが不利にならないようにするなどの対策もある。ただし、中国企業には往々にして、宴会の席にだけ参加する「飲み係」の社員がいるので要注意だ。

■『中国食紀行』〜お茶と風習〜
 広東省や香港では、お茶を注いでもらったときには、二本指で「とんとん」とテーブルを叩いてお礼をするのが習慣である。又、急須に追加のお湯を頼むときは、急須の蓋をずらして合図する習慣もある。この指でのお礼は昔、清の乾隆帝が、身分を隠して庶民の生活を見て回った際、部下の湯呑にお茶をついだのだが、身分を隠している手前、部下は「ははっ」とも言えず、代わりに二本指で、机を「とんとん」と叩いた。これが起源となったと言われている。
 中国では良いお茶は実に高価で、街の茶館には、一杯何千円のものもあり、気を付けなくてはいけない。

★その他、中国の悪食文化は、実は遡れば満漢全席の四八珍にもつながる事、野味猛鮮と呼ばれる金持ち階級の遊びの文化、等を紹介した。

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【3年4月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】

テーマ: 『 宣長さんに思う 』


日  時:令和3年4月21日(水) 12時30分〜14時00分
場  所:若宮の杜 迎賓館 橘の間
参加者:18名

スピーカー:
岩部 雅人(いわべ まさと)
岩部建設株式会社
代表取締役

岩部 雅人氏

■岩部建設について
 当社は大正15年に岩部岩五郎が創業した建設会社で、現在の売上比率はおおよそ建築9、土木1の割合である。本社は武豊にあり、名古屋、豊田にも支店がある。
 昨今、環境問題で、ゼロカーボンや省エネなどが叫ばれているが、実はCO2排出量の2〜3割は建設産業が占めていると言われている。今後、建設業界もゼロカーボンに向けて、仕事の仕方を変えなくてはならない。もちろんコストアップにつながるため、発注者側にもその価値をご理解いただけるよう努めることが必要とされる。

■本居宣長との出会い
 本居宣長旧宅は三重県松阪市の松阪城内に移築保存されているが、その跡地の近くに「牛銀」という有名な松阪牛すきやき店がある。社会人スタートの地・横浜にある地下鉄の駅に「牛銀」の広告看板があり、「本居宣長旧宅跡前」と表記されていた。気になって松阪まですき焼きを食べに行き、松阪城内の本居宣長記念館にも寄ったのが、宣長との出会いであった。記念館では、宣長の生涯について学ぶことができる。日本や日本人というものを考えるにあたり、宣長は避けては通れない人物であると思うようになった。

■本居宣長の生い立ち
 宣長の実家は松坂の木綿商で、江戸にも支店を持っていたが、兄の代で破産してしまう。宣長自身は商才がなく、修業に出たこともあったが、全く商いには向いておらず、追い出されてしまったこともある。そこで、母親の勝は、わずかな遺産を元手にして、「医者になれ」と京都に勉強に行かせた。当時の医学といえば漢方である。まずは京都で漢学、医学を学び、その後、松坂に帰郷し、「本居春庵」と名乗って小児科を開業した。
 医学を勉強する中で、儒学、神道、歴史、和歌などにも触れるようになり、強く関心を持つようになる。特に江戸で高名な国学者である賀茂真淵の著作に出会い、次第に傾倒していった。ある時宣長は、真淵が伊勢詣のために松坂に逗留しているという話を聞きつけ、宿に押しかけた。真淵は疲れているにも拘らず、真剣に宣長の話を聞いたという。『古事記』を勉強したいという宣長に対して、真淵は「それはよい。しかし、『古事記』を知るためには『万葉集』を勉強すべきだ。私は『万葉集』の研究に生涯を費してしまったが、君はまだ若い。先ず『万葉集』を学び、その後に『古事記』に取り掛かりなさい」と助言した(「松坂の一夜」)。以来、宣長の勉学における基本姿勢は「近道はなし。倦まず怠らず励み努めるべし」である。
 宣長は真淵に入門したが、両者が会ったのはこの1回だけである。以後は、松坂の宣長が質問を書面で送り、江戸の真淵が朱文字で回答を書くという「通信教育」が続けられた。
 宣長は遠慮せずに師説に疑問を呈するため、破門寸前になることもあった。しかし宣長は自らの門人に対しては、「師におもねる必要はなし。よくよく研究した上で、自分なりの考えを持って主張するのならば、師と対立するもよし」という姿勢で接していた。

■『古事記伝』
 『古事記』には原本が残っておらず、写本しかない。実は、現存する日本最古(1371年)の写本は大須観音(真福寺)にある。『古事記』は非常に読みづらく、それ故、その注釈書ともいえる『古事記伝』を宣長が著したことは大変画期的であった。小児科医を続けつつ全44巻を執筆するに35年の月日が要された。後に、宣長に憧れ、商売をやめて学究一筋でいこうとする門人に、「たとえ学問をするにせよ、先ずは家業を怠らないように」という趣旨の歌を詠み与えている。宣長も医業をこつこつ続け、お金をためながら研究した。よき生活者であり、よき社会人であり、周りへの配慮ができた上で初めて、自身の主張をすることができる、ということだ。ここには、宣長のひたむきさ、人間臭さ、優しさがあり、それ故にこそ宣長は「宣長さん」として身近に感じられるのである。

■本居宣長の弟子
 『古事記伝』を批判する人もいたが、絶大な支持も得ており、門人も大勢いた。熊本出身の帆足長秋も、何度も松坂を訪れ、入門したひとりである。娘の京とともに、寝る間も惜しんで『古事記伝』などを写本した。長秋は、京が幼い時から「その著作がどういう思いで書かれたかを感じ取って書写しなさい」と教え諭していた。京の写本は、まるで原本をコピーしたかのような、素晴らしい書写だった。しかし、京は目の酷使のせいか、眼病を患ってしまった。実は、宣長の長男である春庭も、宣長の書いた本の清書や読解をしていたが、やはり眼病を患い、ついには失明してしまった。春庭は針灸の勉強をして鍼医として開業。妻や家族の協力を得て、研究活動も続けた。

■宣長の学問に対する考え方
 日本人の本来の心持ちは、儒教や仏教が中国より伝わる前から存在している。従って、一度これらを全て横に置いた上で、日本人の「道」を研究する必要がある。これが宣長の主張である。一方で、当時の日本人の生活には儒・仏の教えが深く染み込んでいることも理解しており、そのことへの配慮は忘れなかった。その証拠に、宣長は遺言で2つの墓を作るよう指示しており、ひとつは宣長オリジナルのものが山室山に、もうひとつは伝統に則り本居家菩提寺・樹敬寺に設けられた。また、自宅には仏壇もあり、日々先祖の供養を勤めた。
 学問においては、自分以外の存在を認めて初めてオリジナリティが発揮できる。自己主張と他者尊重を両立させる発想は、日本人の寛容さやバランス感覚があらわすように、この国にながく受け継がれてきたものなのではないかと考えている。

■しき嶋の歌
 宣長は山桜を殊のほか好み、「しき嶋のやまとこころを人とはば朝日ににほふ山さくら花」と詠んでいる。この歌は戦前、「桜花のように潔く見事に散って戦死すること賛美している」などと誤解されていたが、実際はそうではない。生命を大切にする小児科医の宣長が「見事に散ってこい」などと言う訳がないのである。ただひたすらに、「山桜は美しい。まさしく大和心は山桜と同様に美しく、素直で感受性豊かな心持ちに他ならない」と詠んだ歌なのである。


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【3年5月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】

テーマ: 『 映画「名も無い日」〜名古屋でなければ作れなかった訳〜 』


日  時:令和3年5月19日(水)12時30分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 3階 桂の間
参加者:24名
スピーカー: 聞き手:

写真:日比 遊一氏

日比 遊一(ひび ゆういち)
写真家・映画監督

写真:山口 寛氏

山口 寛(やまぐち ひろし)
ナカシャクリエイテブ株式会社 代表取締役社長


■生い立ち〜こうして映画監督になった〜
Q:名古屋で生まれ、ニューヨークへ渡った経緯とは?
 私は、名古屋市熱田区で生まれたが、若い頃は自分の町を毛嫌いしていた。熱田神宮でお参りしている大人たちをみて、「ああいう大人にはなりたくない・・・」と思っていた。高校卒業後、俳優を目指し親の反対を押し切り上京した。19歳の時に松田優作さんと出会い、「お前ぐらいの年齢だったら、俺ならニューヨークに行って頑張る」と言われ、英語も分からないまま一文無しでニューヨークに渡った。オフブロードウェイで小さな役をやりながら、オーディションを受けたり、小さな舞台で戯曲を書いて自分で演じるといった生活を送っていた。当時のアジア人は、サラリーマンややくざの役しかなかった。映画「ロッキー」のように自分で脚本を書かなければ、アジア人のイメージを破ることはできないと思った。そこで、30代になって脚本を書き始め、33歳の時にベトナム人のギャングに出会ったことがきっかけで、ベトナム戦争後にアメリカに渡ったベトナム少年たちの姿を描いた『ROAD KILL』の脚本を書いた。その脚本はカンヌ映画祭でアメリカ代表として招待されたが、未だに映画になっていない。

Q:写真家になった経緯とは?
 脚本を書くようになってから、映画の裏方に興味をもつようになった。絵を描くのは苦手なので、写真を撮って絵コンテの代わりに多くの映画会社を回った。アジア人を主役にした映画を作りたかったが、採用してくれる会社はなかった。そうこうしているうちに写真家として評価され、世界各国の美術館や著名なコレクターに収集されるようになった。自分自身が演じるよりも、人の魅力を引き出す仕事の方が向いていると感じるようになった。

Q:映画監督になった経緯や、制作した作品とは?
 もともと映画監督をやりたいと思っていたが、ある時、写真のコレクターが資金を提供してくれることになり2014年に初監督映画「ブルー・バタフライ」を制作した。その後、高倉健さんのドキュメンタリー映画「健さん」の監督オファーを受けた。高倉健といえば私の心のヒーローであり、80年代に海外に渡って苦しかった時、彼の任侠映画を見て乗り越えてきた。しかし世界で「KEN」といえば、高倉健よりも渡辺謙の方が知られている。この映画で「日本の男・高倉健」の存在を世界に知らしめたいと思った。プロデューサーは、私が企画した錚々たるキャスティングに映画の実現を心配したが、私は、“KEN TAKAKURA”の凄さを知る世界の一流たちにも健さんを語って欲しいと思った。マイケル・ダグラスに出演してもらうのに40通の手紙を書き、マーティン・スコセッシの出演に1年を要したが、最後は快く応じてくれた。その結果、2016年のモントリオール世界映画祭でワールド・ドキュメンタリー部門・最優秀作品賞を受賞することができた。映画「ブルー・バタフライ」に感動して私に手紙をくれた樹木希林さんが2019年に企画した映画「エリカ38」でも監督・脚本を務め、主演の浅田美代子さんがロンドン・イーストアジア映画祭・審査員特別賞を受賞した。

■映画『名も無い日』
Q:この映画制作のきっかけとは?
 ニューヨークで写真家として認められ、念願だった映画監督として「ブルー・バタフライ」の長編映画の撮影をしていた矢先に、弟が亡くなったと悲報が入った。帰国して弟の生活の跡を目の当たりにした時、弟に家のすべてを押し付けてきたことを考え罪悪感に苛まれた。今、自分が向き合っていることは実はもっと根本的なこと、普遍的なものではないかと思い始めた。人間には一つの共通項がある。この世に生まれてくること、そして死んでいくこと。それは好き嫌いの問題ではなく、人間にとって避けられないことである。そんな弟の死が、自分の中で突然一本の木の幹のようなものとして生え始めたことがこの映画を制作するきっかけとなった。

Q:名も無い日とはどういう意味か?
 名も無い日とは、孤独死とか、戦争とか、いつ亡くなったかわからない人の命日を指す。現在、コロナという目に見えない敵が立ちはだかる中、生と死というものが他人事ではなく、年齢別でもなく、背中合わせに皆同等にある。そんなことを体感しながら日々過ぎていく。この映画は、私の私小説から始まったものであるが、これを見る皆さんのストーリーでもあると思っている。この映画を観て、今やらなければならないことは何なのか自問して欲しいと思った。

Q:制作でこだわったこととは?
 この映画の企画を持って映画会社を回り、どの会社も興味を示してくれたが、自分の中でどうしても納得できないことが2つあった。1つが主人公の年齢設定を変えてアイドルを使ってできないかということであった。このシリアスなテーマを俗っぽい映画にしたくなかった。2つ目が東京を舞台に変えられないかということだった。東京で撮影すれば、キャストの予定も合わせやすく、費用も抑えられるからだ。
 そんな時に声をかけてくれたのが、地元の同級生だった。彼が立ち上がってくれたおかげで、映画と全く縁のなかった4人が完成まで導いてくれた。この映画は奇跡の連続で出来上がった映画なのである。(そのうちの1人が本日聞き手で登壇している山口氏)

ポスター:映画『名も無い日』

Q:全編名古屋での撮影にこだわった理由とは?
 名古屋での撮影にこだわったのは、私の故郷だからだ。言葉の持つ“音”は音楽そのもの、その場所に息づく名古屋弁をきちんと表現したかった。熱田・名古屋を離れて40年間という時を取り戻したかったのかもしれない。この映画で刻みたい風景があった。それは明治神宮でも青山墓地でも神田川でもなく、熱田神宮であり平和公園であり堀川だった。熱田神宮の熱田まつり(尚武祭)は、自分の小さい頃の原風景であり、熱田まつりの6月5日の1週間前の5月28日に、東海3県で先行上映することにした。熱田神宮には劇映画として初めてカメラが入った。

Q:主演の永瀬正敏氏について
 永瀬正敏さんは自分の細胞までその役に変えてしまうくらいずば抜けた集中力がある俳優である。その一瞬に込められた魂は明鏡止水の如く表現できるのだと思う。彼は写真家でもあるということを別の映画で知ったが、カメラを構えた姿がひときわ美しい。

Q:この映画は説明が少ないと言われるが?
 私は映画に説明は不要であると考えている。テレビ番組は、ご飯を食べながらでも話が分かるように制作しているが、映画は、観客一人一人に投げかける無言の対話であると思っている。この映画では主人公が写真家であるという説明はどこにもしていない。

■最後に
Q:コロナ禍での映画の意義とは?

 コロナ禍で劇場にいく機会が減っているが、こんなご時世だからこそ映画をはじめ文化が人の心に刺さると思っている。そうでなければ文化はなくなってしまう。DVDやスマホでは得られない音と画のパワーを是非とも映画館で体感してもらいたい。
 映画館でのクラスター発生は、世界中で1件も報告されていない。安心して映画館に足を運んでいただきたいと思う。

Q:名古屋での今後の活動とは?
 名古屋市は都市ブランド・イメージ調査で「行きたい都市」「魅力のある都市」で最下位となったが、これほど名古屋満載の映画はない。映画を次世代に残せるような「名古屋国際映画祭」をやりたいと思っている。子供たちが、自分たちは名古屋にいても、こういう世界とつながれるのだと思ってもらえるように活動していきたい。

*映画「名も無い日」
 5月28日(金)より東海3県(愛知県・三重県・岐阜県)先行上映中
 6月11日(金)より全国ロードショー

*事務局より
 ニューヨークを拠点に写真家としても活躍する名古屋市熱田区出身の日比遊一監督から、名古屋での撮影にこだわって制作した映画にかける想いを熱く語っていただきました。この映画は、日比監督ご自身の体験を映画化したものですが、名古屋の魅力を発信しようと思いを同じくする地元の4人が立ち上がってできた映画でもあります。
 ご興味のある方は、ぜひ映画館でご覧ください。


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【新会員自己紹介】

写真:飯田 容子氏
火曜グループ

飯田 容子(いいだ ようこ)
株式会社ル・ウエスト
代表取締役社長

【株式会社ル・ウエスト】
〒453-0021 名古屋市中村区松原町1-43-2

 30年以上に渡って、名古屋駅からほど近い100室のビジネスホテルを経営していましたが、JRリニア新幹線の駅予定地になってしまい売却。
 代わりに京都二条に客室9室の和モダンをテーマのホテルを開業。
 その前後から、京都の客室不足とオリンピック需要を当て込んだホテル業界の建設ラッシュとなる。
 毎年2万床近くが増床する中、温暖化なのか年々客室料金が跳ね上がる春と秋が短くなるなど、京都での宿泊業の未来に期待できなくなり、2020年1月京都のホテルも売却しました。
 趣味ではありませんが、子供の頃に授業で受けた光合成で、私たちの命は森に生かされていることを知り、以来自然保護に興味を持つようになりました。
 今は世界遺産となった「知床の森」ですが30年以上前に当時の斜里町の町長さんの発案によって、大勢の長年の寄付者によって今の姿になったのです。
 私も初期の寄付者として、トラストの事務所に名札がかかっているのをうれしく思っています。
 それ以降も、自然保護活動でセミナーなど開いていましたが、言ってるだけではだめだと思い、結果として岐阜県恵那市の山林3000坪、築350年の農家を含む田畑2000坪の農地を買い、ボランティアの若者たちと米作り、野菜作りをしてきました。
 27年目になる今年(2021年)も田植えの準備が始まっています(2021年4月20現在)。
 なお、ビジネスとしては、東京、名古屋などでの賃貸経営と、山口県、岐阜県などでの太陽光発電事業を残すのみとなりました。
 時間に余裕のできた現在は、FM放送のパーソナリティーをしています。

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写真:白石 明氏
火曜グループ

白石 明(しらいし あきら)
西松建設株式会社 中部支店
執行役員支店長

【西松建設株式会社 中部支店】
〒461-8558 名古屋市東区泉2-27-14 関電不動産高岳ビル
URL:https://www.nishimatsu.co.jp/

 昭和34年生まれ イノシシ年 61歳です。
 出身は山口県の下関です。
 入社後、建築現場26年、内勤12年経ちました。
 名古屋勤務は初めてになります。
 皆様のご指導よろしくお願いいたします。

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写真:原 直人氏
火曜グループ

原 直人(はら なおひと)
あいおいニッセイ同和損害保険株式会社
執行役員 中部地域リテール担当

【あいおいニッセイ同和損害保険株式会社】
〒453-6117 名古屋市中村区平池町4-60-12 グローバルゲート17階
TEL:052-563-9534 FAX:052-563-9472
URL:https://www.aioinissaydowa.co.jp/

 今年4月に着任しましたあいおいニッセイ同和損害保険株式会社の原 直人と申します。
 この度産業懇談会火曜グループに参加させて頂くことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。

 当社はMS&ADインシュアランスグループの中核事業会社として、経営ビジョンの実現に向け、全社を挙げて取り組んでおります。
 当社の掲げる「特色ある個性豊かな会社」の実現に向けて追及してきた「先進性」「多様性」「地域密着」をさらに発展させ、ビジネススタイルを変革し、新しい日常においてもお客さまを全力でサポートしてまいります。
 具体的には、「地方創生」の一環としてすでに当社は、中部(東海)地域の「地方公共団体:24団体(21年4月末)と連携協定を締結しています。また、テレマティクス自動車保険のパイオニアとして「事故のあとの保険から事故を起こさない保険へ」をキャッチコピーに、安全・安心なクルマ社会の実現に取り組んでおり、今後は、当社の特色を生かした中部経済への貢献を果たして参りたいと考えております。

 今回、産業懇談会の参加を通じて、様々な業種、業界の皆様から貴重なご意見を拝聴させていただき、多くのことを学ばせていただきたく存じます。
 何卒よろしくご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

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写真:井戸康博氏
水曜第1グループ

井戸 康博(いど やすひろ)
株式会社ベネスト
取締役

【株式会社ベネスト】
〒450-0002 名古屋市中村区名駅5-31-10 リンクス名駅ビル 7F
URL:https://benest.co.jp/

 株式会社ベネストはIT企業です。ヘルスケア、機械・装置の組込系システム、IoTシステム、DX等を手掛けております。
 出身は名古屋です。社会人としてはほぼITを生業として参りましたが、途中商社勤務もあり、単身赴任11年もありました。趣味はテニス、映画鑑賞、読書、旅行です。
 何卒宜しくお願いします。

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写真:児玉 貴紀氏
水曜第1グループ

児玉 貴紀(こだま たかき)
ネオファースト生命保険株式会社
中部営業部 部長

【ネオファースト生命保険株式会社】
〒460-0008 名古屋市東区武平町5-1 名古屋栄ビルディング 9階
URL:http://www.neofirst.co.jp/

 ネオファースト生命は第一生命グループの生命保険会社です。
 ネオ(Neo)はギリシャ語で「新しい」、ファースト(First)は英語で「いちばん」を意味します。保険によって得られる安心や満足は、お客さまを取り巻く様々な社会環境やライフスタイルの変化によって変わっていくはずです。社名には、これらの変化に迅速に対応するだけでなく、お客さまそれぞれのニーズを先取りし、これまでになかったいちばん新しい安心や満足をお届けする会社でありたいという想いを込めています。

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写真:宇高 秀樹氏
水曜第2グループ

宇高 秀樹(うだか ひでき)
オリックス株式会社 名古屋支店
支店長

【オリックス株式会社】
〒460-0003 愛知県名古屋市中区錦2-9-29 ORE名古屋錦ビル
URL:https://www.orix.co.jp/grp/

 4月1日付の人事異動により名古屋支店勤務となりました宇高秀樹と申します。前任の武田からも中部経済同友会の皆様方には大変お世話になったと聞いており、引き続き宜しくお願い致します。
 愛知県は縁もゆかりもない土地柄ではありますが、非常に大きな都市に赴任できたことを家族含め心から喜んでおります。家族構成は妻と子供2人で、子供2人も友達もでき、名古屋に徐々に慣れてきており一安心しております。
 趣味はお酒を飲むことや、ゴルフ含め体を動かすことですが、当面は一日でも早いコロナ収束を願い自粛生活中でございます。
 早く皆様に直接お会いできることを楽しみにしております。
 これから何卒、宜しくお願い申し上げます。

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写真:江島 まゆみ氏
木曜グループ

江島 まゆみ(えじま まゆみ)
全日本空輸株式会社
名古屋支店長

【全日本空輸株式会社】
〒450-6211 名古屋市中村区名駅4-7-1 ミッドランドスクエア11階
TEL:052-586-8900
URL:http://www.ana.co.jp/

 全日本空輸の江島と申します。
 このたび前任の矢澤の後を受け、産業懇談会に参加させていただくことになりましたので、よろしくお願い申し上げます。
 現在、セントレアからの国内19路線のネットワークを築き、地域の皆様の利便性向上に努めております。ANAグループは機内食や機内エンターテイメント、ラウンジなどを活用し、全国各地域の伝統や文化、観光資源を国内外に広く発信してまいりました。また、2013年度より、人・モノの流動の拡大を通して、47都道府県の経済を活性化させるプロジェクトに取り組んでおります。
 昨今のコロナウィルスの世界的拡大により、弊社も運休や減便などを余儀なくされ、皆様方にご不便をおかけしております。他方、ご利用のお客様には、安心、安全な環境を提供するため、「ANA Care Promise」として、新型コロナウィルス感染予防対策を講じております。
 機内では、上空および地上在機中、すべての空気が医療用フィルターを通して、約3分間で入れ替わるなど、常に空気換気を行っております。また地上でも皆様に衛生、清潔にご利用頂けるよう感染対策を強化しております。この取り組みは、SKYTRAX社「COVID-19 Airline Safeting Rating」部門において、アジア初の最高評価5スターを受け、衛生・清潔部門でも世界最高評価をいただきました。今後もスタッフ一丸となり、お客様の信頼を得られるよう、衛生・清潔な時間と空間作りに尽力してまいります。

 名古屋への赴任は初めてでございますが、すでに経済エネルギーの勢い、魅力あふれる文化を肌で感じております。皆様と幅広くお付き合いをさせていただければ幸いです。
 末筆ではございますが、本会の活動では様々な業界の方々の貴重なご意見を拝聴出来ることを楽しみにしております。産業懇談会の皆様におかれましては、何卒よろしくご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

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写真:北 昌秀氏
木曜グループ

北 昌秀(きた まさひで)
KUNIX株式会社
代表取締役 執行役員社長兼CEO

【KUNIX株式会社】
〒520-3022 滋賀県栗東市上鈎236-1
URL:https://www.kunix.co.jp/

 KUNIX株式会社の北と申します。
弊社は、滋賀県栗東市に本社機能を構えている人材派遣の会社です。
 栗東市は琵琶湖の南部に位置し、市の北部は平坦地、南部は緑豊かな山地となっており、市内には国道1号線・8号線が通過し、名神高速道路栗東インターチェンジがあるなど、交通の要衝として、製造業・商業・流通業など数多くの企業が立地し、また、京阪神への通勤圏でもあり人口7万人を有している町です。

 弊社は、この立地の良さと得意とする物流業界へのネットワークを生かし、人材派遣業界では珍しい物流ドライバー派遣を得意としている企業です。
 もちろん、物流以外への人材派遣も積極的な展開を行っておりますので、人材でお困りのことがあれば、何なりとご相談ください。

 さて、私事ですが、本年9月で齢52となります。
 体を動かすことが大好きで、時間があればジム通いやゴルフを勤しんでおります。
 実はもう一つ好きなことがあるのですが、社員や家族の目が厳しく実現できておりません。天気のいい日には車庫に眠っているバイクを引っ張り出したい衝動に駆られています。
 会員の皆様の中でツーリングのご計画があればお声がけお願いします。

 最後になりますが、同友会の皆様のお役に立てるよう精進して参りますので、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

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写真:松岡 直之氏
木曜グループ

松岡 直之(まつおか なおゆき)
KUNIX株式会社
上級執行役員副社長 経営管理本部長兼CFO

【KUNIX株式会社】
〒520-3022 滋賀県栗東市上鈎236-1
URL:https://www.kunix.co.jp/

 KUNIX株式会社の松岡と申します。
 弊社は、滋賀県に本社機能を構えている物流関連人材派遣の会社です。
 
 “幸福とは「働く」ことにある”
 弊社は、コロナ禍の中で立ち上げた会社です。コロナで仕事を失ってしまい、家族の幸せが消えてなくなる悲惨な状態を何とか救えるよう、世の中の人々の役に立てればとの思いで設立いたしました。
 “三方よし”
 近江商人発祥の地である滋賀県で、運送会社を始まりとして起こった当社は、ドライバー派遣を専門とする会社でしたが、最近では物流効率の改善に寄与する仕事全般をこなすように成ってまいりました。
 まさに、人と人を繋ぎ、働く場所を提供し、企業様の効率を上げる。弊社の経営理念と近江商人の経営理念が合致した企業となることができたと自負致しております。
 会社は近江ですが、私はネイティブ名古屋人です。経済感覚、ビジネス感覚は名古屋人スタイルです。会社の成長、目標は新規上場でございます。中部経済同友会のためにも精進して参りますので、今度ともよろしくお願いいたします。

 最後にPRをもう一つ。
 滋賀発webマガジン tap shigaは「滋賀で暮らす素敵な時間」をコンセプトに様々な情報を発信しているWebマガジンです。滋賀にお越しになられる際は覗いてみて下さい。

URL:https://tap-s.net/

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6月度産業懇談会のご案内
 緊急事態宣言が6月20日まで延長となりましたので、その期間中に開催します6月の例会は食事の提供を取り止めさせていただくことにいたしました。
 開催時間は下記の時間となりますのでご確認をお願いいたします。
 6月20日以降の例会につきましても、今後の情勢により、昼食提供や開催時間等、変更する可能性がございます。変更が決定次第、ホームページでもご案内いたします。

  • 定員は先着25名(※定員の締切はホームページにてご連絡いたします)

 ※会合にご参加いただける際は、マスクのご着用・手洗い、積極的なアルコール消毒の励行にご協力ください。発熱の症状がみられるなど体調不良の方は、ご参加をお控えいただきますようお願いいたします。

グループ名 世話人 開催日時 テーマ・スピーカー 集合場所
火曜グループ

富田 茂
広井幹康
深田正雄

6月15日(火)
13:00〜14:30

『物流と製造のコラボ!
      ワンストップサービスのご紹介』
株式会社サカキL&Eワイズ 
代表取締役 榊 宏之 氏

名古屋
観光ホテル
3階
桂の間

水曜第1グループ

淺井博司
足立 誠
落合 肇

6月30日(水)
12:30〜14:30

『お豆腐業界とくすむらの生き方』
株式会社くすむら 
代表取締役社長 柘植 一憲 氏

名古屋
観光ホテル
集合・食事
2階 曙東の間
講演
2階 曙西の間
水曜第2グループ

大倉偉作
香川裕子
高見祐次

6月9日(水)
13:00〜14:30

『新規事業『情報銀行』への挑戦  
          〜開発秘話&悲話〜』
三菱UFJ信託銀行株式会社 
常務執行役員 名古屋営業本部長 稲葉 健伸 氏

若宮の杜 
迎賓館
1階
橘の間

木曜グループ

河村嘉男
中林直子
吉田憲三

6月3日(木)
13:00〜14:30

『高速道路における新たな価値の創造』
中日本高速道路株式会社
取締役 常務執行役員 近藤 清久 氏

名古屋
観光ホテル
2階
曙西の間

 *従来と開催時間が異なります。開催時間にご注意ください。
 *会場にご注意ください
 若宮の杜 迎賓館(住所:名古屋市中区栄三丁目35-30、Tel:052-231-2038)

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7月度産業懇談会のご案内

 7月度例会については、下記の通り開催いたします。当日は大変興味深いお話が伺えるものと存じますので、ぜひともご出席くださいますようお願い申し上げます。
 感染リスクを回避するため、引き続き定員を設けさせていただきますのでよろしくお願い申し上げます。
 今後の情勢により、昼食提供や開催時間等、変更する可能性がございます。変更が決定次第、本会HPでもご案内いたします。

  • 定員は先着25名(※定員の締切はホームページにてご連絡いたします)

 ※会合にご参加いただける際は、マスクのご着用・手洗い、積極的なアルコール消毒の励行にご協力ください。発熱の症状がみられるなど体調不良の方は、ご参加をお控えいただきますようお願いいたします。

グループ名 世話人 開催日時 テーマ・スピーカー 集合場所
火曜グループ

富田 茂
広井幹康
深田正雄

7月13日(火)
12:30〜14:30

『私の自然保護活動とビジネス』
株式会社ル・ウエスト 
取締役社長 飯田 容子 氏

名古屋
観光ホテル
集合・食事
18階 伊吹の間
講演
3階 桂の間

水曜第1グループ

淺井博司
足立 誠
落合 肇

7月21日(水)
12:30〜14:30

『米とともに114年
      〜コロナ禍における米卸の生き残り方〜』
株式会社ハナノキ
代表取締役社長 池山 真一郎 氏

若宮の杜 
迎賓館
集合・食事
2階 桜の間
講演 
1階 橘の間
水曜第2グループ

大倉偉作
香川裕子
高見祐次

7月14日(水)
12:30〜14:30

『建設会社目線からの中部地域の現状及び今後について』
株式会社大本組名古屋支店
執行役員 名古屋支店長 山廣 隆宏 氏

若宮の杜 
迎賓館
集合・食事
2階 桜の間
講演 
1階 橘の間

木曜グループ

河村嘉男
中林直子
吉田憲三

7月1日(木)
12:30〜14:30

『電話工事の会社がトマトをつくってみました!
     〜シーキューブ株式会社の事業紹介〜』
シーキューブ株式会社
取締役社長 久保園 浩明 氏

名古屋
観光ホテル
集合・食事
2階 曙東の間
講演
2階 曙西の間

 *従来と開催時間が異なります。開催時間にご注意ください。
 *会場にご注意ください
 若宮の杜 迎賓館(住所:名古屋市中区栄三丁目35-30、Tel:052-231-2038)

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【コラム】

コラム1 【さっかの散歩道】 No.35
コラム【さっかの散歩道】

長瀬電気工業株式会社
代表取締役 屬 ゆみ子

『 不要不急?! 』

 新しい生活様式とかいう自粛期間がなんと2年も続いている。海外旅行も会食も宴会もお買い物も、笑顔はじけるシーンがことごとくマスクで覆い隠されてしまった。やっと始まったワクチン接種だが、私も含めきっと「ぼちぼち危ういな」―精神的にも肉体的にも、と感じてらっしゃる方は少なからずいることだろう。私の場合、若干の神経過敏になっている傾向があって、肩こりや眼精疲労に悩まされることが多くなったように『思う』。この『思う』は、ネガティブな現象を全部コロナのせいにしてしまいがちだということだ。この精神衛生上よろしくないことを健全にするための行動は、きっと「不要不急」ではないと考えて(一方でこの連載のネタ探しもかねて)、知人の「甲子園にガス抜きに来たら?」という誘いに乗ってみることにした。

 勿論感染対策はこれでもかというくらいの状態だ。名古屋から新大阪まではマスクにフェイスガード、透明のビニール手袋で、アルコールタイプのウエットティッシュを抱え、新大阪からホテルや甲子園までの移動は、友人の手配してくれたハイヤー(運転手はPCR陰性)にしか乗らない。甲子園では食事や飲みものの販売が無いので、各自で用意して持ち込むという手はずだ。まあ、野球が始まれば若干歓声も漏れるかもしれないが、口パクで『六甲おろし』歌う気満々だった。ちなみに当日は対ドラゴンズ戦で、私はというとヤクルトファンというややこしい設定。それでも野外球場の広い景色はきっと気分転換になると期待していたのだが、当日16時、雨天中止のお知らせがホテルで待機中の私に届いた。
「どうしましょうか?」
「どこかで食事する?」
「でもこのお惣菜は…」
「とりあえず甲子園球場だけでも見に行きましょう、近くに知り合いの飲食店があるので、そこで室内ピクニックして、気分だけでも甲子園な感じで」

写真
こんなことに!!

球場近くにある閉店中のイタリアンレストランで、席だけ借りてアルコール抜きのピクニックと相成った。兵庫県も緊急事態宣言が出ている最中、20時前でアルコール無しのマスクご飯とはいえ、なんだか湧き出る罪悪感。普通に食事しているだけなのにそれは果たして良くないこと?でもきっとどこかで自粛警察が見ていて、あとで面倒なことにならなきゃいいけど。これではリフレッシュにならないよね…などと思いながら、ホテルに戻ってルームサービスでワインでもとメニューを見ると、ラストオーダー20時。時計はすでに30分ほど経過。このホテル、通常は24時間ルームサービスがあるのだが、事前に知っていたら、オーダーしておいて部屋にセットしてもらったのに!と、一人することのない部屋で長い夜を過ごすことになった。

 この頃、マスコミも周りの人も、他人のことを「あげつらう」ことがまるで「正義」であるかのような発言が耳につく。先日母のもとにワクチン接種のお知らせが届いたので、間髪入れず孫がネット予約を代行し、5月中旬の予約が取れた。それをどこかで聞いたご近所で変な噂が立った。「なんかね、知り合いの議員さんに頼んだらしいよ」。まもなく卒寿を迎える母に、そんな根も葉もない噂が実しやかに流れる世知辛さ。一方で余ったワクチンを誰が打ったとか、そんなことをいちいちニュースにして問題視する。これでは国民総野党ではないか。きっと私だけでなく、誰もが少しずつ病んでいるのだろう。ウイルスのお話に関しては、先日京都大学の宮沢先生が「京大 おどろきのウイルス学講義」という本を出版され、先生のマスコミでの発言に興味を持ったので、品薄の所早速手に入れて読了しTwitterで先生の呟きを見るようになった。先生の持論は、「ウイルスを恐れ過ぎず、うまく付き合っていくための予防をしっかりしましょう」というものなのだが、そういう考え方はマスコミでは本流ではないらしく、先生自らインタビューで答えたこと、一番伝えたかったことが編集で完全にカットされていたり、ある日は某ワイドショーに自ら連絡し、お話しさせてほしいと申し出て「検討します」と言われて早や半年が過ぎたのだそうだ。何が正しいのか誰も明確な正解を持っていない中での、マスコミの姿勢は公平性に欠けるしミスリードが目立って観ていて不快になることもしばしば。こんな毎日の中でどうやって精神の健全さを保って行ったらよいのやら。

 結論!情報は最低限にシャットダウンする。自閉しつつ、自分の大好きなことだけ、自分のためにする。つまり決して不要不急ではない前向きな引きこもり以外、残念ながら思いつかない。そのために必要なものリストを作成してみることにした。
 (1)ワイン、(2)料理、(3)動画配信サイト、(4)オペラ、(5)本、(6)自動車、(7)ジムetc…
 なんだか普段と変わりないかも(笑)。でもいい意味で「見ざる聞かざる言わざる」の三猿になろうと思っている。

イラスト

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コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.151
コラム【「ほん」のひとこと】

株式会社 正文館書店 取締役会長
谷口正明

『 パラドックス 』
高橋昌一郎監修・ニュートンプレス刊

 シリーズ「ニュートン式超図解 最強に面白い!!」の一冊です。四つの章で、論理・数学・宇宙・物理学の代表的なパラドックスを紹介します。
 「すべてのクレタ島民はうそつきである」とクレタ島民が言ったらこの発言の真偽は?100メートルを10秒で走るアキレスは100メートル前方にいる秒速1メートルで進むカメに決して追いつけない、なぜならアキレスがカメのいた地点に着いたときにカメは必ずその前方に進んでいるから?このほか、「宇宙人はどこにいるのか」というフェルミのパラドックスや、相対性理論についても解説しています。
 このシリーズは理科系のテーマを図解を取り入れながら分かりやすく解説してあり、各テーマの入門書として最適です。『時間』『人工知能』『死とは何か』『確率』など約30点が刊行されています。

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【お知らせ】

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