産業懇談会【メールマガジン 産懇宅配便】 第207号 2019.8.30発行

メールマガジン■産懇宅配便■

令和元年8月度(第207号) 目次
【元年6月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】 6月26日(水) 12時00分〜14時00分
【元年7月度 産業懇談会(木曜G)模様】 7月4日(木) 12時00分〜14時00分
【元年7月度 産業懇談会(火曜G)模様】 7月9日(火) 12時00分〜14時00分
【元年7月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】 7月17日(水) 12時00分〜14時00分
【名古屋いちばん物語】 No.123
【新会員自己紹介】
鷲田 勇二氏

株式会社きんでん 執行役員中部支社長

三輪田 達典氏

株式会社JERA(ジェラ) 常務執行役員 西日本支社長

島岡 利幸氏

株式会社ナゴヤキャッスル 専務取締役

二村 等氏

株式会社名古屋観光ホテル 常務取締役総支配人

吉田 滋史氏

三菱商事株式会社中部支社 支社長代理兼業務開発部長

近藤 清久氏

中日本高速道路株式会社 取締役常務執行役員

【9月度産業懇談会のご案内】
【産業懇談会4グループ合同懇親会】
【コラム】
コラム1 【さっかの散歩道】 No.14
コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.130
【お知らせ】
【元年6月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】

テーマ: 『 イノベーションを生む組織と人材育成 』


日  時:令和元年6月26日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 曙の間
参加者:30名
スピーカー:

写真:小端 進氏

小端 進(おばた すすむ)
事業構想大学院大学 専務理事

写真:伊藤 和彦氏

伊藤 和彦(いとう かずひこ)
事業構想大学院大学・名古屋校 事務局長


 冒頭に伊藤氏よりご挨拶を頂いた後、事業構想大学院大学 専務理事 小端 進氏からご講演を頂いた。

<小端進氏 講話>

■事業構想大学院大学について
 学校法人先端教育機構・事業構想大学院大学は2011年11月に学校法人を設立。2012年4月に東京の南青山に事業構想大学院大学を開学した。ビジネススクールだがMBA(経営管理修士)ではなく、MPD(事業構想修士)という学位を出している。MBAは概ね既存事業、既存エリアを高度な能力で分析し、効率化を図り、利益が最大化するようマネジメントすることを目的とした学問だ。それに対し、MPDは事業の根本となるアイデアを思いつく「発・着・想」から、ビジネスの全体像をまとめ上げる「構想案」、それが市場に求められたものかを確かめる「フィールド・リサーチ」、計画に落とす「構想計画」、社会に広めていく「コミュニケーション」までの全てを対象としている。目的は見映えの良い事業計画書をつくることではなく、人の心を捉え、社会を動かしていく事業を作ることにある。

■事業承継でも必要となる構想力
 事業承継で大成した、イノベーションを起こした歴史上の人物として誰をイメージするだろう。私が考える答えは織田信長だ。信長は事業承継者ではないと思われる方が多いと思うが、実は、父である信秀から、戦略に応じた居城の移転、商工業の重視、上昇志向、積極性と合理主義等、様々なものを承継していたのではないか。大うつけと呼ばれ、長老衆からの悪評のある信長に那古屋城を譲り、承継者から外さなかった背景には、親子の間に信頼感があったのだと考えている。そして家督を継いだ信長は、社会環境の変化に合わせ、活かせることは拡張し、一方で関所の撤廃など経済政策や、宗教勢力への対応など、理想的な未来を描き、新たな取り組みを行った。事業承継を迎えている企業はそれなりの成功体験を積んできているが、それは過去の環境下における成功に過ぎない。社会が変化する中で、自社の経営資源を活かしつつ、未来の社会においても必要とされる事業をつくる、まさに構想することが事業承継においても重要だ。

■組織におけるイノベーション課題
 イノベーションを起こすための組織の課題として、(1)今までの成功モデルから脱却できない、(2)現場のアイデアがことごとく弾かれる、(3)顧客の本質的なニーズや課題を捉えられない、(4)開発目的や目標がはっきりしない、(5)人材の欠如、(6)イノベーションの仕組みがない、(7)予算がつかない、(8)経営層や社内の理解・協力が得られない、(9)根強い自前主義、内部リソースへのこだわり、(10)既存事業への短期業績に注力し過ぎる等が挙げられる。特に大企業にありがちなのは、新規事業に取り組む環境が整っていないことだ。例えば、社外リソースを活用できず過去の延長線上での事業検討を行う、新規事業メンバーに権限が与えられず綿密な計画と上申のために堅い魅力的でないプランとなる、M&A等の手段ありきで顧客不在のビジネスアイデアとなる、完璧さを求めるあまり机上検討が優先され改善のサイクルが回らない、市場規模や既存事業とのシナジーを基準とした投資判断で既存のリソースに引っ張られて価値が弱まる等の体制面の課題が挙げられる。イノベーションは内から起きてこそ、本当のイノベーションになる。英語には「外部からの力で割れた卵は死を迎える。内部の力で割れた時、初めて命が誕生する。偉大なことは常に内発的なものから始まる。」という有名な格言がある。

■人材育成の観点からエンゲージメントと自育
 社会が大きく変容する中、それに対応する人材育成が必要だ。一昨年のアメリカの調査会社・ギャラップ社が行ったどれだけ熱意を持った社員がいるかの調査では、日本は139ヶ国中132位、熱意を持った社員は6%しかいない。日経新聞の社説では、「自ら主体的に仕事に取り組む姿勢に欠ける」「働き手の熱意の低い職場から目の覚めるようなイノベーションが生まれないのは自明だろう」等とも書かれている。イノベーションを生み、会社が進化していくためのポイントは、会社への忠誠(ロイヤルティ)ではなく、社員のエンゲージメントではないか。
 多くの企業では、スキル教育とマインド教育が人材育成の中心になっているが、現状の事業の枠の中では優秀な人材を育てることしかできないのではないだろうか。気づきを大切にするコーチング研修等でも、優秀な人ほど、講師が求める答えを推測し、正解探し、模範解答探しをしてしまう。これからは正解のない問題に、自ら問いを探して挑戦していく人材育成、それを育む環境を作ることが必要だ。本当の中核人材は育てることはできず、自ら育つしかない。そして、企業には自ら育つための環境を作る事しかできない。自ら育つための環境の本質は、本気で考えさせることだ。「たいていの人たちは、それ以上アイデアをひねり出すのは不可能という段階に来ると、やる気をなくしてしまう。いよいよこれからなのに」とエジソンは言っている。本気だからこそ熱意をもってアイデアを考え抜く、そしてこれ以上ないという段階でもっと考え抜くことができる。社員への投資、経営者自身が大きな夢を描くこと、アイデアの多様性も重要だ。これをやっては駄目あれをやっては駄目で、未来をつくる社員を気づかぬ内に失ってはいないだろうか。

■事業構想大学院大学での取り組み
 本学では、本気で考え抜き、事業を形にするための環境として「修士課程」と「付属研究所におけるプロジェクト研究」を提供している。また本学のカリキュラムでは「気づける素養」を磨くための事業構想原論といった科目群が特徴的だ。成功したベンチャーの社長を指して、あの人は運が良かったんだという人がいるが、運も実力の内で、運(イノベーションにつながる事業の種)は沢山落ちているが、ほとんどの人が気づかずに見過ごして通り過ぎている。その種に気づく素養を磨く科目群をまず学び、その上でそれを事業化し、効率良く実現するためにMBA的な科目を学ぶことで、インプットが効率よくできるカリキュラム構成としている。
 プロジェクト研究では、ゼミ形式で新規事業を創っていく。テーマを決めて企業から参加者を集めて研究体を発足し、担当教授がファシリテーションをしながら、一年間かけて新しい事業を作る。参加者には事業構想研究所の研究員資格を付与し、会社を代表して新規事業を構築するという使命感を持ってもらう仕掛けだ。また会社が求めることは何かという模範解答探しになりがちだが、新規事業を成功させるには推進する人の情熱が必要だ。その意識を変えるために、新規事業を自分事にする動機付けにも取り組んでいる。事業構想は社会の変化とともに進化していくものであり、修士課程、プロジェクト研究の期間だけで終わるものではない。本学では修了後も、キーパーソンの紹介等を含め、様々な形でのフォローを提供している。

■卒業生新規事業事例の紹介
 集英社の田中恵氏は、このままでは出版社が生き残れないという思いを抱いて入学、事業を構想する中で、40代・50代の女性が10代・20代の頃に集英社の雑誌に持っていた憧れが重要な経営資源だという気づき、40代・50代の女性をターゲットにして季刊誌MyAgeを創刊した。またオンラインメディア雑誌OurAgeを創刊し、更年期やアンチエイジング等をテーマにオンラインメディアに集まる声と連動した様々なセミナーも開催している。OurAgeストアという通販サイトでは、雑誌を読む感覚で商品が買うイメージの作りで大変な成功を収め、集英社初の女性取締役に抜擢され、昨年からは常務に就任している。
 また株式会社137を創業した黒田千佳氏は、乳幼児の死亡率の高い発展途上国向けに、日本の母子健康手帳のノウハウをIT化して提供する仕組みを考え、世界銀行主催の世界防災・減災ハッカソンで世界大会のファイナリストに選出された。今は先進国向けに電話を活用した緊急時情報伝達システム、新興国向けには無償で母子健康手帳の機能を提供し、集まった健康データを先進国でビッグデータとして活用するというモデルで成功している。


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【元年7月度 産業懇談会(木曜G)模様】

テーマ: 『 名古屋城ができる前の那古野村の様子
                  〜名古屋の観光資源を掘り起こす! 』


日  時:令和元年7月4日(木) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 曙の間
参加者:39名

スピーカー:
熱田 三六(あつた さんろく)
郷土愛好家

写真:熱田 三六氏


 木曜グループ例会では、郷土愛好家として活動される熱田三六氏をお招きして、徳川家康による清州越と名古屋城築城以前の那古野村の研究についてのお話をいただいた。

■自己紹介
 ペンネームの熱田三六について・・・織田信長の三男織田信孝の幼名が三七。同じではおこがましいので、ひとつ下げて三六を名乗っている。織田信孝は、熱田で生まれ、9歳で、私の故郷鈴鹿市の神戸城の城主となった。熱田三六を名乗ることにより、現在暮らす名古屋・熱田と故郷鈴鹿市をささやかにPRする意図を持っている。私自身が歴史に興味を持ち始めたのは、ここ7〜8年のことで、たまたま熱田神宮の西の誓願寺の前を通ったとき、教育委員会の看板を見て源頼朝がここで生まれたことを知ったり、現在の名古屋が清州から町ごと引っ越してきたことを知ったりするなど、まだまだ知らない魅力がたくさんあることを知り、それをもっと多くの人に知ってもらいたいと考え、探求心にスイッチが入った。町を愛するという意味において郷土愛好家を名乗っている。

■名古屋城の城下町
 名古屋城は誰もが知っているが、もともと町があった所にお城が建てられたわけではなく、名古屋城と同時に名古屋の町が生まれたことは、あまり知られていない。関ケ原の戦いで徳川家康が勝ち、征夷大将軍になり江戸幕府を開いたものの、大坂には豊臣秀頼が健在だった。そこで、徳川幕府の西の砦として、また、大坂への圧力として、徳川家康は、現在の名古屋に目をつけ、名古屋城を築き、清州から町ごと引っ越して、現在の名古屋の町の原形を作った。本日は名古屋城築城と清州越の前の那古野についてお話したい。  

■名古屋・那古野はいつ開拓されたのか
 では名古屋・那古野はいつ開拓されたのだろうか。まず、場所については、現在の三の丸あたりと言われている。名古屋城築城前、現在の三の丸あたりにあった若宮社が700年前後の建立、天王社(現在の那古野神社)は911年の建立と言われているので、まったく人が住んでいなかったわけではないが、本格的に荘園として開拓されたのは、12世紀、東大寺別当顕恵によるもので、その後、健春門院に寄進されたという。健春門院は平清盛の義理の妹であり、健春門院が後白河上皇の寵愛を受けたことから清盛が最盛期を迎えることになり、その健春門院の死により、清盛と後白河上皇は不仲になり一気に不満分子の台頭を許すことになった。よって、那古野荘は、平清盛の最盛期に開拓された・・といえる。その後、時代は流れ、那古野は今川氏の支配下に入る。

■那古野(なごや)時代の織田信長
 織田信長は名古屋三英傑のひとりだが、織田信長と名古屋の関係を語ることができる市民は少ない。織田信長は勝幡城で誕生したと言われているが、49年の生涯の4割を那古野(なごや)で過ごした。1538年に父:織田信秀が今川氏から那古野城を奪取し、1539年に古渡城(現在の東別院周辺)を築いた際に、まだ幼い信長に那古野城を任せた。その後、現在の学制で例えると、信長は、小学6年生で元服、中学1年生で初陣、中学2年生で結婚。高校3年生のとき、父信秀が亡くなると、わずか3か月後に家臣の裏切りが発覚、赤塚の戦いに突入。そして、1555年、信長21歳の時、清州の織田大和守家を打倒し、那古野から清州城に移り、その5年後、桶狭間の戦いで一躍全国区に躍り出ることになる。

■若き信長が駆け巡った那古野(なごや)とは?

名古屋城築城前、那古野村に住んでいた庄屋が、1633年に尾張藩に提出したと言われる名古屋城築城前の古図を見ながら、名古屋城築城前、若き信長が駆け巡った那古野村がどんな様子だったのか検証した。江戸時代に何か所か朱色で加筆されており、江戸時代の地図と照合しながら、現在の位置を推定する。地図に描かれている東西の道に、「今 中小路」という加筆がある。江戸時代の中小路とは、三の丸の武家屋敷を東西に入っていた道で、現在の三の丸を東西に走る道に相当する。厳密には、東西に走る道の北側の歩道あたりか? その中小路を境に、南北に分けて検証した。 写真:名古屋古図

 古図の南半分の南端には「蒲焼町」との加筆があり、これは現在の錦通にあたる。つまり、この絵図の南端は、現在の錦通ということになる。南半分で一番目立つのは萬松寺だ。「旧萬松寺の寺領は、西は伏見町、北は片端、南は袋町に至り、仏門は札の辻にあった」と旧名古屋市史に記されている。非常に広い寺院で、現在の丸の内二丁目全域が旧萬松寺の中に収まることになる。さらに、萬松寺の西側に記載されている「泥江神社」は、現在、御園小学校の西に位置する泥江縣神社である。八丁四方(約800メートル四方)の広大な社域を有していたとされるが、八丁(約800メートル)といえば、現在の栄交差点と広小路伏見との間の距離であり、それを一辺とする社領は旧萬松寺に匹敵する広さだったようだ。現在も氏子が非常に広い範囲にまたがっているのには、そのような背景がある。また、この絵図の右(東)に唯一描かれている南北の道には「武平町ヨリ七本松エ出ル道」と加筆されている。現在、久屋大通の一本東に「武平町通」があり、また、中区千代田に「七本松」の交差点があり、それを結ぶ道だと考えられる。

写真:名古屋古図  古図の北半分は、名古屋城本丸、二の丸、三の丸にあたる。目印となるのは天王社(現在の那古野神社)だ。名古屋城築城の際、御神籤で神意を伺ったところ「遷座不可」と出たことから、天王社だけそのままの場所に残った。明治に入り、陸軍が三の丸を接収した際に現在地(丸の内二丁目)に移されたものの、江戸時代の地図と比較をすることで天王社を起点に様々な位置関係がわかる。戦国期から明治初期まで、天王社は、現在の金シャチ横丁:義直ゾーンのやや南に位置していた。若宮八幡は、名古屋城築城に際して、現在の中区栄三丁目に移され、若宮通という道路の名前にもなり親しまれているが、名古屋城築城前には、「山澄近所=江戸時代の山澄邸近くにあった」と加筆されている。江戸時代の山澄氏邸は、現在の名城病院あたりにあったとされ、また、古図でも、天王社のやや南東に描かれているので、築城前まで、若宮八幡は、現在の名城病院のやや東にあったのではないかと推測される。

■若き信長が過ごした那古野(なごや)城
 なお、戦国期の那古野城は、城主の館の周りを家臣の屋敷が囲むような構造だったらしく、また、古図によると、現在の名古屋城の二の丸に位置していたとされる。現在、三の丸にある法務局やリニア新幹線の非常口の建設現場などの発掘調査から東西に走る大きな溝が発見されており、愛知県史によると、この溝が、今川氏が治めていた時期の城下の最南端ではないかと記されている。そして、その溝は、当初V字型だったのが16世紀に箱堀に改修されており、これは、那古野城が、今川氏から織田氏に移った後、改修されたものと推測される。信長公記に、信長の父信秀が「堅固な要害にするよう命じた」と記されていることとも整合性が見られる。まだ、発掘調査が行われていない箇所もたくさん残っているので、今後の発掘調査に期待したい。

■丸の内三丁目は山だった?
 金城温古録に収納されている御城取大体図には、現在の丸の内三丁目に相当する場所に、山と思われるイラストが描かれている。現在、丸の内や錦のオフィス街はフラットな印象があるが、丸の内三丁目の中心部と広小路伏見交差点との間には、なんと5メートルもの高低差があり、丸の内三丁目は山だったことに対する状況証拠となりうる。

古地図から読み解く名古屋城築城前の那古野の様子に加えて、歴史を観光資源として活用するための観光ルート整備のご提言等等、盛り沢山のご講演を頂きました!


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【元年7月度 産業懇談会(火曜G)模様】

テーマ: 『 ドコ塗るの?ココ塗るの ONLY1企業を目指して 』


日  時:令和元年7月9日(火) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:35名

スピーカー:
遠山 武志(とおやま たけし)
株式会社アイチテクノ 代表取締役

写真:遠山 武志氏


■自己紹介
 まずは自己紹介をさせて頂きたい。写真を見て頂ければわかる通り、私は見た目が本当に変わらない。数カ月前にパスポートを作りに行った際には、係員に「えっ?」と言われ、10年前のパスポート写真と見比べられてしまう程に変わっていない。
 幼稚園の頃から体が大きく、運動を含め、多くの習い事をしていたが、小学校2年生からボーイスカウトに入り、25歳でローバースカウトまで卒業した。過去の宇宙飛行士12名の内11名がボーイスカウト出身者だという程、精神肉体ともに鍛錬の場になるものだが、今では本場のアメリカでもボーイスカウトの数が減っている。日本でも夜間ハイクは青少年育成条例で禁止され、生きた鶏を捌いて食べることも動物保護団体の苦情で出来なくなった。子供が冒険心を養う機会が失われつつあることを危惧している。
 小学校では野球、サッカー、水泳、陸上部、相撲、中学ではバスケ、サッカー、陸上と、沢山の部活動に励み、中学時代には砲丸投げで県大会にも出場した。一浪して北海道の大学に入学したものの半年ほどで退学、二浪し東京の私立大学に進学したが、アルバイトで稼げることがあまりにも楽しく、アルバイトに熱中。週6日はバイト漬けの日々で、4年半働いたガソリンスタンドでは、お客さんに所長だと思われていた程だった。学校には当然行かなくなり留年。親からは30歳までは好きなことをして良いと言われていたが、25歳で大学を卒業後、名古屋に戻り、家業を継ぐために就職した。

■「YES or はい」の精神
 28歳で青年会議所に入会したことが転機となった。40歳で卒業するまでの約10年間、本当に濃厚な時間を過ごさせて頂いた。青年会議所では多くの事を学んだが、その一つが「YES or はい」の精神だ。基本的にお誘いは断らない。その積み重ねで、人からの信用を得ることができる。例え、何か事情があったとしても、2回「No」とお答えしたら、次のお誘いはないと考えている。仕事でも、遊びでも、PTA等の自治体の役職などでもこの精神を実践している。ロータリークラブはお誘いを頂いて44歳で入会、同友会には46歳で入会をした。最初は錚々たる方々ばかりで緊張していたが、出席して顔と名前を覚えて頂くことで変わってくる。同友会は特に人と人とのつながりに加え、講演等が本当に勉強になるので、積極的にお誘いしている。

■会社紹介
 会社は昭和52年10月設立、昭和55年から父・遠山堯郎が代表を務めている。平成14年に株式会社アイチテクノに社名を変更した。当時、私自身は社名変更に反対していたが、社名変更によって塗装のイメージが薄くなり、防水に関する依頼が増加した。防水工事を頼む時には、10年保証が付くので、10年後もその会社があるかということを重視して選んで頂きたい。当社では元請けをさせて頂くことが多いが、通常、ゼネコンが元請けをすることが多い理由の一つには、そういったリスク回避の面もある。業務内容は塗装工事や防水工事だが、塗装工事では送電鉄塔、無線鉄塔、煙突やガントリークレーン等の高所作業を伴うものに加え、身近な所で戸建て住宅や社屋・工場等の外壁塗装も行っている。
 当社のモットーとして、お声がけを頂いて見積りを提出した後は、こちらから連絡しないことを徹底している。お客様に選んで頂いたということで、押し売りをするよりも責任感が生まれる。これは採用も同じで、本人に覚悟を持ってもらうために、こちらから採用するつもりであることは伝えるが、「入社します」という最後の一言は本人から言ってもらうようにしている。

■ドコ塗るの?ココ塗るの(施行事例の紹介)
 テレビ塔の塗装では当社は長いご縁を頂いている。テレビ塔の改修は、今回は竹中工務店、その前(2012年・2005年)は大成建設、1998年の私が最初に携わった改修の際は竹中工務店がされていた。当社はその下請けに過ぎないが、テレビ塔の取材となると、なぜか当社に取材を頂くことが多い。昨年12月に受けたCBCの取材では、自分の出身中学の後輩でもある浅田舞さんからインタビューを受けた。テレビ塔はこれまで7年周期での全面更新の際に塗装を行っていたが、今後、公園に店舗が並ぶため、一括での更新はできなくなる。今後は、短いサイクルでの補修塗装を適宜行っていくことになるだろう。
 当社の最大のお客様は中部電力で、送電鉄塔や、火力発電所、変電所などの建物等も元請けとして声をかけてもらっている。その他、大きい所ではデンソー、東邦ガス、中部電気保安協会、カリツー、関西電力等でも仕事を頂いている。最近では人手不足の影響も有り、国交省の公募案件なども受注できるようになってきた。作業員の不足というのが業界での悩みになっているが、幸い当社は、協力会社の親方が非常にバイタリティのある人で、もっと仕事を取ってくれと言われるほどに作業員が増えている。送電鉄塔では年間200基程を塗装しているが、最大のものでは130m級のものもある。特に柱が丸い鉄塔では、作業者が抱き着く様な形で塗っていく。鉄塔にはカラスの巣が多く、作業をしているとカラスに襲われて、ヘルメットを突かれることもある。思いもよらない危険に遭うこともあり安全第一だが、仕事熱心で意欲的な作業員たちに恵まれ支えられている。

■地域貢献活動について
 ボーイスカウトでの経験からボランティアはやって当たり前という点と、地元で存在感のある会社になりたいという点から、様々な活動をしている。近隣の公園で、予算不足で放置されているフェンス塗装等も行っている。子供たちに地元に愛着を持ってもらうため、昨年は土木事務所や学校からも許可を得て、夏休み中に地域の小学生を集め、フェンスの上塗り塗装をしてもらった。今年も同じ企画を計画している。毎年少しずつでも実施していき、極楽小学校区、高針台中学校区の全ての公園をリフレッシュしたいと考えている。

講演の最後には、今回の例会のためだけに製作したという、(株)アイチテクノの皆さまの想いがこもった会社PR動画の上映を頂きました!


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【元年7月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】

テーマ: 『 音楽の楽しみ方
         〜フランス音楽とドイツ音楽との比較を通して〜 』


日  時:令和元年7月17日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 3階 桂の間
参加者:34名

講師・ピアニスト:桑野 郁子(くわの いくこ)
チェリスト:高木 俊彰(たかぎ としあき)


 水曜第1グループ例会では、ピアニスト・桑野郁子氏、チェリスト・木俊彰氏をお招きして、ミニコンサートを開催した。桑野氏、木氏はお二方とも東京藝術大学をご卒業され、現在名古屋を拠点に活躍されている演奏家。名古屋市立菊里高校で教鞭もとられている。
 フランス音楽とドイツ音楽の違い、その比較を通した楽しみ方について、演奏を交えながらお話いただいた。
水曜G写真1

<ご講演>

■言葉が生む文化の違い
 話し方一つをとってもドイツ語とフランス語の二つの言葉は異なる。ドイツ語はひとつひとつの言葉をくっきりと分けて話すのに対し、フランス語は複数の言葉をつなげて流れるように話す。それが文化や考え方、ひいては音楽にも影響しているのではないだろうか。ドイツの枠組みや構成をしっかりさせたいという所と、フランスの流れるように進めたいという所は音楽においても表れている。それぞれの比較を通して、音楽の楽しみ方についてお話していく。

■ドイツ音楽の特徴
 ドイツ音楽は、モーツァルト、ベートーヴェン、ハイドンなどのドイツ語圏の作曲家が、ソナタ形式、変奏曲形式といった形式を発達させ、構成の枠組みのしっかりとした曲を作っていった。ソナタ形式であれば、構成が3つの部分に分かれ、最後に、最初の旋律をもう一度繰り返す構成となっている。ドイツ音楽ではもう一つ「調性(ハーモニー)」という要素が非常に重要になる。長調(明るい・軽い印象)、短調(暗い・重い印象)を使い分けて、途中で調を変えることで、曲のメリハリをつけることが挙げられる。こういった曲の作り方はドイツ人作曲家の得意とするところでもあった。
 変奏曲形式であれば、主題というメロディー(テーマ)があり、テーマのキャラクターを変えたり、調を変えたりして、表情を付けて楽しんでもらう。バロック時代、古典派時代、ロマン派時代と、ドイツの作曲家は様々な形式を発達させた。ドイツ音楽の隆盛は長く続き、多くの巨匠を生んでいる。

■フランス音楽の特徴
 フランス音楽は、詩や情景、絵画などを自由に音楽で描写する作品が多い。例えば、ドビュッシー作曲の、「チェロとピアノのためのソナタ」は、アルベール・ジローの「月に憑かれたピエロ」という詩にインスパイアされた曲だ。ピエロがギターでセレナーデを奏でてみようとする…という情景が描かれている。フランス音楽では、ロマン派時代までのドイツ音楽では絶対にしない調の異なる音を同時に弾くこともある。白い鍵盤だけの調と、黒い鍵盤だけの音階とを同時に鳴らすようなことをする、それは、いわば、青色と黄色を混ぜて緑を作るのではなく、それぞれの色を別々に塗り、近くで見ると分からないが離れた所から見ると葉に見える、絵画でいう印象派の様な音の使い方をしていると言える。それ故に、ドビュッシー等は印象派の音楽とも言われる。
 現在演奏会で取り上げられ、一般的に認知されているフランス音楽には、どちらかというと近代の作曲家が多い。それは長く続いたドイツ音楽の隆盛、それに伴い発展してきた形式に対する反発のような形で、フランス人らしい自由な音楽が花開いたという流れによるものだ。ちょうどフランスで印象派絵画、象徴派詩人が活躍した時期であったことの影響も大きい。

■ドイツ音楽とフランス音楽の違い
 このようにドイツ音楽とフランス音楽の比較を通して音楽を楽しむことができる。理性的で頭脳派のドイツ音楽と、感性的なフランス音楽のどちらにもすばらしさが存在するが、本日はドイツ音楽がお好きな方が多いようだ。最後はドイツ音楽から、チェロソナタ第1番ホ短調Op.38よりフーガ(遁走曲)を演奏したい。フーガにおいても、テーマが調を変えたり、高低を変えたりしながら、何度も繰り返される。フーガには追いかけっこという意味も有り、ピアノとチェロが追いかけるように、テーマを様々に変化させながら演奏していく。テーマがどう変わったのか、確かめながら聞くのがフーガの楽しみ方だ。

■演奏曲リスト
 1.モーツァルト作曲 トルコ行進曲 (ドイツ音楽)
 2.サン=サーンス作曲 動物の謝肉祭 より 白鳥 (フランス音楽)
 3.ベートーヴェン作曲 マカベウスのユダの主題による12の変奏曲 (ドイツ音楽)
 4.ドビュッシー作曲 チェロとピアノのためのソナタ ニ短調 (フランス音楽)
 5.ドビュッシー作曲 水の反映 (フランス音楽)
 6.ラヴェル作曲  水の戯れ (フランス音楽)
 7.シューマン作曲 アダージョとアレグロOp.70 (ドイツ音楽)
 8.ブラームス作曲 チェロソナタ第1番ホ短調Op.38よりフーガ (ドイツ音楽)
 <アンコール>
 9.ドビュッシー作曲 月の光 (フランス音楽)

水曜G写真2 水曜G写真3

当初、参加者の好みはドイツ派が多勢でしたが、アンコールとして特別に、ドビュッシー作曲の「月の光」を演奏いただき、フランス音楽の魅力に開眼する方も。

優雅な午後のひとときに酔いしれる一同

桑野さま、高木さまが出演されるコンサートが今秋、伏見・電気文化会館ザ・コンサートホールで開催されます。ぜひ足をお運びください!

詳細はこちら
 10月14日(月・祝)「ブラームスの森〜第10回シューマンの思い出」
 11月 6日(水)  「フランス音楽の夕べ」


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【名古屋いちばん物語】 No.123

テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第100回 』

料亭つたも主人
深田正雄(栄ミナミ地域活性化協議会)

栄ミナミ(住吉地区)の路地裏街変遷

 戦後の住吉界隈は個人営業の飲食店が密集する繁華街として発展してきました。広小路通りには柳の街路樹とともに200店を超える屋台が並び、復興土地区画整理事業によってすべての街区に夜の営業を中心とした飲み屋の路地通りが形成されました。

 本年3月、名古屋都市センターから「名古屋都心における路地的空間の形成可能性の基礎研究」(調査課・中島壮太朗氏刊)という名のユニークな研究報告書が発表されましたので、そちらを引用しつつ、栄の魅力向上の要素として変遷を紹介してまいります。中島氏研究によれば、栄住吉地区8つの街区内に5つの路地が存在しており、名称のある「栄小路・むつみ小路・住吉小路」ほか下記地図から戦後の変遷を語っていきたいと思います。

住吉の語り部写真1
栄3丁目1〜10番地(昭和34年) 路地地図 青色路地は撤去、ピンク路地は現存

<(1)栄3丁目-1番街区>
 戦災で丸焼けになりましたが広小路西「吉田ビル」と東角の「富国生命ビル」は鉄筋だったため外部や躯体が残り、その間に広小路劇場がオープン、劇場周辺が大きな路地を形成して“本町バザー”と呼んでいました。路地内には劇場前広場が形成され、釣り堀や露店街としても親しまれていました。オシャレなカウンターと壁面鏡張り「喫茶CA」、舶来品カメラ「もみじや」広小路キャンディーストアなど進駐軍文化を感じさせるアーケードも西の本町通りにつながっていました。富国生命跡地は赤玉パチンコ、キャバレー赤玉会館と山田泰吉翁の戦後創業の地といえます。

<(2)栄3丁目2番「栄銀座」>
 終戦後に建物が建てられ路地が形成されたようで栄小路とよばれ、幅員2〜3m直線型、延長89m、当時からあるお店は「中華料理・夜来香」のみとなりました。北側の丸善は2012年閉店、現在は駐車場となり路地がオープン通りとなってしまいました。路地全体が7筆の土地で共同所有もあり土地所有者は37名、建物の所有者は21名となっています。西南角の住吉ホテルとんかつ八千代中店が有名でした。割烹八幡屋さんは一昨年まで営業されていました。北側の丸善・明治屋はダイテックホールディングが取得、取り壊され現在はコインパーキングとなっていますが、最高級ホテル「リッツカールトン」が進出とのこと、南の路地・栄小路との調和と融合がいかになるか楽しみです。(詳しくは、住吉の語り部第54回)

住吉の語り部写真2
栄小路看板・奥が丸善跡地と明治屋ビル
住吉の語り部写真3
路地の元八幡屋跡地、現存する中華・夜来香

<(3)栄3丁目3番「松竹小路」>
 向かいの栄銀座南に「松竹映画劇場」(現在のパチンコ・キング観光)があったので名付けられた全てが飲食店、コの字型小路。入口の伍味酉、カレートリオ、金鯱山など思い出深い名店が並んでいましたが、昭和59年丸栄の南館建設に伴いなくなってしまいました。(詳しくは、住吉の語り部第55回)

<(4)栄3丁目4番「日活小路」>>
 日活映画劇場南の小路のみ現存、幅員約4m、延長68m「L字型」が残っています。かつては栄NOVAのところに「栄楽天地」路地が2本南大津通に通じた飲み屋街で、多くの証券マンで賑わっていました。

<(7)栄3丁目7番>
 名前はなく、奥に空き地が多いため酔客の放尿場所、地元の子供は「小便小路」と呼んでいました。日の出写真館から南に幅2.5〜4m、約80mのT字型路地で手形割引、個人金融(サラ金)、才取業などの小規模なチョット怖そうな業態が多く、飲食店はあまり見当たりませんでした。

住吉の語り部写真4
旧日活小路:突き当りに日活映画館がありました。
住吉の語り部写真5
日の出写真館より「小便小路」

<(8)栄3丁目8番「むつみ小路」>
 戦前から現存する栄地区最大の路地、幅3〜4m、約135mY字型で全体が12筆にまたがって、西側は5号道路指定であり、東側は(株)平和不動産の非道路となっています。むつみ小路には商店発展会があり、戦後60年以上の歴史となるキッチンゲランさんが会長、鰻の「以ば昇」の親父が副会長で街づくりに熱心のようです。
 最近は、将棋の藤井聡太7段が腕を鍛えた、「板谷将棋記念室」が路地の突き当りにあり話題です。名古屋ゆかりの棋士・板谷進九段の馴染みの居酒屋が隣接しています。(詳しくは、住吉の語り部第54回)

<(9)栄3丁目9番「地下小路?」>
 ちょっと特殊な形態で、入江町に面する「明星ビル」(かつてのキャバレー明星)地下1階の飲み屋街がなんと、三蔵通りにある「グランドビル」と地下でつながっています。是非、住吉での飲み歩きの時に探検してみてください。

住吉の語り部写真6
むつみ小路南側、以ば昇、ゲラン栄3-9:謎の地下路地、
明星ビルから突き当りが山岳会館と板谷将棋教室
住吉の語り部写真7
栄3-9:謎の地下路地、
明星ビルから突き当りが山岳会館と
板谷将棋教室グランドビル地下の飲食街通路
 <(10)栄3丁目10番「住吉小路」>
 地区最小の路地・幅員1.5m、奥行29mの直線型で現在は3軒のお店が営業中。奥から2軒目の焼き鳥「万亀」は超人気・名古屋コーチン名物の有名店でいつも満席です。地権者は(株)上田土地の一社のみで将来は北側の同社所有のメイフラワービルとともに開発されるとおもわれます。同社の上田浩嗣社長は住吉町商店街の会長として地域の街づくりに貢献されています。
住吉の語り部写真8
住吉小路:北側が一世を風靡したキャバレーメイフラワーのあったメイフラワービル
両方とも(株)上田土地の所有で、将来の再開発が期待されます。

 戦前、この地区は碁盤割の町づくりの南端広小路以南で、道幅は3間(5.4m)、地域全体が入り組んだ路地空間であったようです。入江町通りも三蔵通りも住吉以東はつながっていなく、道路が狭く袋小路のような地域でしたが明治19年南伊勢町に名古屋証券取引所が開設され金融街ができたことが大きな発展のきっかけとなりました。そして、終戦の翌年昭和21年松竹映画ほか、各ブロックに映画館がオープン、そして、栄2丁目に進駐軍のアメリカ村の影響で欧米風俗イッパイの斬新な遊興店が林立して発展してきました。
 当時、戦災で丸焼けとなり全て焼失した栄ミナミに都市復興計画で碁盤割を基本に広い道路空間が計画され、地域民の土地の供出が実施されました。しかし、栄住吉地区の各ブロックには、すべて路地空間が残り、広小路屋台とともに独特な飲み屋文化を醸成していました。地権者、建物所有者、路地道など複雑に権利関係が入り組み反社会勢力の温床となったこともありますが、地元民の努力で環境浄化が進み健全な飲食街に変わりつつあります。周辺の再開発にともない今後の対応が課題となりますが、下町の界隈性を活かした路地飲食街が健全に発展することを楽しみにしております。

 追記:毎月の住吉の語り部シリーズとうとう100回をむかえました。産業懇談会世話人代表の片桐清志さんがスタートした産懇宅急便「すいすい」に地元の歴史文化を紹介せよと、故夢童由里子さんから要請されたのがきっかけで8年、よく継続できたものだと我ながら感心しております。何度もチョットお休みとも考えましたが、片桐さんの後押し、そして、事務局の皆さんの協力でここまで続けられたこと感謝しております。今後は気が向いたら出筆する気軽なペースで地域の話題を紹介できればと思っています。凝りもせず、ご愛読いただいた産懇メンバーの皆様に御礼と謝意を表します。長い間、お付き合いありがとうございました。


<事務局より>
 「住吉の語り部となりたい」シリーズ、100回到達おめでとうございます。
 8年もの長い間、毎月ご寄稿いただき本当にありがとうございました。平成23年から深田様には「住吉の語り部となりたい」シリーズと銘打って、毎月コラムをお寄せいただきました。当時の貴重な資料、写真、幼少時の正雄くんのエピソードなどを交えながら、住吉、伏見、栄界隈のありし日の姿をおもしろおかしくご紹介いただき、当地の歴史文化を楽しみながら学ぶ機会をいただきました。今後も「住吉の語り部」として時折ご寄稿いただけることをお待ちしております!

 深田正雄世話人のコラム「住吉の語り部となりたいシリーズ」は、産懇宅配便バックナンバーよりお読みいただけますので、ご覧ください。
 記念すべき第1回はコチラ → 「住吉の語り部となりたい 第1回」

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【新会員自己紹介】

写真:鷲田 勇二氏
火曜グループ

鷲田 勇二(わしだ ゆうじ)
株式会社きんでん
執行役員中部支社長

【株式会社きんでん】
〒450-6038 名古屋市中村区名駅1-1-4 JRセントラルタワーズ38階
TEL:052-581-9811
FAX:052-581-1954
URL:https://www.kinden.co.jp/

 株式会社きんでん中部支社の鷲田と申します。
このたび佐藤守良の後任として産業懇談会火曜グループに参加させていただく事になりました。どうぞよろしくお願いいたします。

 弊社は1944年に、関西地区における電力会社の電力供給設備を施工する会社として設立されました。現在の事業内容は電力会社の仕事以外にビル・工場などにおける電気設備工事をはじめとして、計装・情報通信・空調・衛生・内装・土木工事を行い「エネルギー」「環境」「情報」を三本柱とする総合設備エンジニアリング会社として事業展開しています。
 事業所は本店(大阪)、本社(東京)をはじめ全国に19の支店(社)、海外においても5つの事務所と9つの関係会社を配置し、国内はもとよりアジアを中心とした海外展開も積極的に行っています。
 私は福井県出身の技術者ですが、入社以来この中部地区でビル・工場などの電気設備工事に関わってきました。中部支社の営業範囲は愛知・岐阜・三重・静岡・福井・石川・富山・長野と8県に渡り広範囲ですが、本会を通じて皆様方と交流し微力ながら中部地区の更なる発展と活性化にお役に立てればと思っております。何卒ご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

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写真:三輪田 達典氏
水曜第1グループ

三輪田 達典(みわだ たつのり)
株式会社JERA(ジェラ)
常務執行役員 西日本支社長

【株式会社JERA 西日本支社】
〒450-6318 名古屋市中村区名駅一丁目1番1号 JPタワー名古屋18階
TEL:052-740-6842
URL:https://www.jera.co.jp

 株式会社JERAは、東京電力株式会社(当時)および中部電力株式会社の燃料上流・調達から発電までのサプライチェーン全体に係る包括的アライアンスを実施する会社として、2015年4月30日に設立されました。2016年7月には両社の燃料事業、海外発電事業などの承継を完了。そして2019年4月1日、東京電力フュエル&パワー株式会社および中部電力株式会社の燃料受入・貯蔵・送ガス事業および既存火力発電事業などを統合し、国内火力発電容量の半分を占める発電能力と、世界最大級の燃料取扱量を誇るエネルギー会社となりました。
 西日本支社は、本社と現場の間に立ち、社内の連携を緊密にしていく役割を担うとともに、中部電力時代に培った地域の皆さまとの関係を維持・継続し、この地域の全ての皆さまにJERAという新しい会社を認識していただく取り組みを行ってまいります。

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写真:島岡 利幸氏
水曜第2グループ

島岡 利幸(しまおか としゆき)
株式会社ナゴヤキャッスル
専務取締役

【株式会社ナゴヤキャッスル】
〒451-8551 名古屋市西区樋の口町3-19
TEL:052-521-2121
FAX:052-528-1752
URL:http://www.castle.co.jp/

 株式会社ナゴヤキャッスルの島岡でございます。
この度、産業懇談会水曜グループに参加させていただくことになりました。よろしくお願い申し上げます。

 弊社は名古屋にて、お城の西隣のナゴヤキャッスル及び名駅前のキャッスルプラザの二つのホテルを経営しております。皆様の日頃のご愛顧にあらためまして心より御礼申し上げます。

 さて、私が親会社の興和鰍ゥらこの潟iゴヤキャッスルに配属されてから約5年が経過しました。それまでは親会社にて繊維部門の営業として国内では東京・大阪・浜松で、海外ではヨーロッパ(7年)、香港(4年程)に駐在しておりました。
 通算20年の単身生活を経験しました。 大学で東京に出て以来、長く故郷の大垣市を離れており、近隣で育ったにもかかわらず名古屋については知らないことばかりです。

 また中学時代にバドミントンを始め、小学生を指導して以来既に23年が経ちました。
毎週末基本2日間6時間の練習をしており、健康面には自信を持っております。バドミントンはゴルフと共に私の生涯のスポーツです。

 ホテルの表に出て仕事をすることはできませんが真心を持って「おもてなし」の精神でお客様に接することの大切さをいつも痛感しております。
でき得る限りのサービスをさせて頂きますのでどうぞお気軽にお声掛けください。

 産業懇談会の皆様におかれましては、多岐にわたりご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

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写真:二村 等氏
水曜第2グループ

二村 等(にむら ひとし)
株式会社名古屋観光ホテル
常務取締役総支配人

【株式会社名古屋観光ホテル】
〒460-8608 名古屋市中区錦一丁目19番30号
TEL:052-231-7711
URL:https://www.nagoyakankohotel.co.jp

 この度、中部同友会、水曜第二グループに入会させていただきました株式会社名古屋観光ホテルの二村と申します。社内では総支配人として営業部門全般を担当しております、今後、よろしくご指導の程、お願い申し上げます。

 昭和34年生まれ、出身は名古屋市西区の生粋の名古屋人でございます。 入社からこの6月までの37年間はナゴヤキャッスルにてお世話になっておりましたが、この度名古屋観光ホテルの総支配人として着任をし、令和の幕開けとともに新しい一歩を踏み出したところでございます。
 そのような中、経済界の生の声にふれる機会をいただき、身の引き締まる想いです。ホテル業界の立場から中部経済の発展に貢献できますよう、努力いたします。 よろしくお願い申し上げます。

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写真:吉田 進氏
水曜第2グループ

吉田 滋史(よしだ しげふみ)
三菱商事株式会社中部支社
支社長代理兼業務開発部長

【三菱商事株式会社】
〒450-8680 名古屋市中村区名駅三丁目28番12号(大名古屋ビルヂング17階)
TEL:052-856-4011
URL:https://www.mitsubishicorp.com/

 三菱商事中部支社・業務開発部の吉田と申します。
この度、産業懇談会水曜第2グループに参加させて頂くことになりました。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 昨年6月より名古屋で勤務をしておりますが、それ以前は海外勤務が多く、また営業グループで太陽光・風力発電事業など電力・環境関連事業に携わっておりました。現在は主にコーポレート部門の業務を担当しております。

 名古屋に一年余り暮らしてみて、夏の暑さはとても厳しいものの、本当にコンパクトで便利な暮らしやすい街だと感じています。近くに名所も多く、色々な所を訪ねるのを楽しみにしております。

 経済的にも非常に元気な中部圏を皆様方と共に益々盛り上げて行きたいと思いますので、ご指導、ご鞭撻のほど何卒宜しくお願い申し上げます。

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写真:近藤 清久氏
木曜グループ

近藤 清久(こんどう きよひさ)
中日本高速道路株式会社
取締役常務執行役員

【中日本高速道路株式会社】
〒460-0003 名古屋市中区錦2-18-19
TEL:052-222-1620
URL:https://www.c-nexco.co.jp

 中日本高速道路の近藤でございます。
 このたび、奥脇の後を受け、産業懇談会木曜グループに参加させていただくことになりました。よろしくお願いいたします。

 弊社では、東名・名神高速道路など、中部地方を中心として、関東や近畿・北陸地方の一部の高速道路の管理運営を行うとともに、東海環状道や名古屋第二環状道をはじめとする建設事業を行っております。これらの事業を通じて、安全を何よりも優先し、安心・快適な高速道路空間を提供することにより、地域の活性化と暮らしの向上、日本の社会・経済の成長、さらには世界の持続可能な成長に貢献することを目指しています。

 14年前に名古屋勤務となった時からゴルフを本格的に始めましたが、大都市の中では極めて恵まれた環境にもかかわらず、腕の上達が進まない日々を送っています。
 会員相互が自由に意見交換のできる異業種交流の場である本会の活動を通じて幅広い経験をし、見識を高めていきたいと考えておりますので、ご指導のほど、よろしくお願いいたします。

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9月度産業懇談会のご案内
グループ名 世話人 開催日時 テーマ・スピーカー 集合場所
火曜グループ

富田 茂
広井幹康
深田正雄

9月10日(火)
12:00〜14:00

『名古屋駅の開発について』
名古屋ステーション開発株式会社
取締役社長 坂田 一広氏

名古屋観光
ホテル
3階
桂の間

水曜第1グループ

淺井博司
足立 誠
落合 肇

9月25日(水)
12:00〜14:00

『 「The Next Wa-fu」
     〜新たな和風感性の発信〜 』
株式会社ワーロン
取締役社長 渡辺 敬文氏

名古屋観光
ホテル
18階
伊吹の間
水曜第2グループ

片桐清志
大倉偉作
高見祐次

9月11日(水)
12:00〜14:00

『三井不動産グループのまちづくりと
             中部エリアでの展開』
三井不動産株式会社
中部支店長 村元 祐介氏

名古屋観光
ホテル
3階
桂の間

木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助
吉田憲三

9月12日(木)
10:00〜15:30

『トヨタ博物館 見学会』

名古屋
商工会議所
(バス移動)

※9/12(木)木曜グループ見学会ご参加者の方には別途詳細の案内を送付いたします。

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産業懇談会4グループ合同懇親会

 10月は恒例の4グループ合同懇親会を以下の通り開催いたします。
今回は火曜グループの企画により、マジックショーを開催します。

 産業懇談会活動を広く知っていただくため、中部経済同友会すべての会員の皆様へご案内しております。また、ご家族・ご友人の皆様のご参加も可能です。
 お誘い合わせのうえ、ぜひ多数のご出席をいただきますようお願いいたします。

Masic Bar
日時 令和元年10月30日(水)
(スケジュール)
17:30〜20:00
17:00 受付開始
17:30 開会
17:30〜18:00 ステージパフォーマンス
18:30〜20:00 懇親パーティー(着席ビュッフェ)    
場所 ホテルナゴヤキャッスル 2階 天守の間
公演内容 マジックショー
名古屋市栄にあるマジックバー「手品師」より、海外コンテストで受賞経験もあるマジシャンの皆様にお越しいただき、迫力あるステージパフォーマンスと、テーブルマジックを目の前でご披露いただきます。
対象 中部経済同友会会員(ご家族・ご友人の方もご出席可能です)
会費 お一人 12,000円(後日請求させていただきます)
備考 お申し込みはお送りしているFAX用紙で10月11日(金)までにお申込願います。
お申込後のキャンセルは、10月24日(木)までにお願いいたします。
それ以降のお取り消しは会費を申し受けますのでご了承願います。

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【コラム】

コラム1 【さっかの散歩道】 No.14
コラム【さっかの散歩道】

長瀬電気工業株式会社
代表取締役 屬 ゆみ子

『 ドイツorフランス 』

 日照不足だった7月、気分晴らしになればと産懇水曜第1グループ主催のミニコンサートに参加した。
 ピアノとチェロのアンサンブル、ドイツとフランス音楽の違いを楽しむ会ということで、フランス贔屓の私は「きっとサンサーンスとか、ドビッシーとか、私にとっての癒し系が演奏されるに違いない」と期待していた。当日、ピアノを演奏してくださった桑野さんは、フランスのエコールノルマルからドイツに行かれたという経歴の持ち主なので、どちらも正当な解釈をされて演奏されていた。
写真:ミニコンサート

 実は、クラシック音楽においてこの「解釈」というのはとても厄介なもので、楽器を習ったことのある方なら、結構頭を悩ませた経験をお持ちだろう。少し前に流行ったアニメ「のだめカンタービレ」の中でも、主人公の演奏スタイルが中々認められないことで葛藤し、やがて世界に羽ばたく様子が描かれていた。解釈と言われる所以、それは大作曲家が手掛けた音楽の、当時の音源が残ってないことによって生まれたもので、唯一残された楽譜の中から、これは一体どう演奏すべきかを、聞き伝え、又作曲家の個性の中に見出してゆくという作業を要することを意味する。私の縁戚でピアニストの属澄江(サッカスミエ)大叔母と結婚して日本に帰化した音楽家、属啓成(サッカケイセイ)という人は、まさにベートーベンの解釈をライフワークとしていた音楽家だった。そんなこともあり、子供の頃のピアノ教室では、ドイツ贔屓でビオラ弾きの父が「クラシックは古典とロマン派以外は認めぬ」とドイツ並みにきっちりしたオーストリアの楽曲を習わせるべく、「長女はハイドン、次女(私)はモーツァルト、三女は声楽を」が徹底され、姉は性格もあって、きっちり楽譜通りの演奏をして褒められていたが、気分屋の私は勝手な解釈ばかり、要は自分の弾きたいように演奏するので、先生には「あなたの音楽は変!」とかなり目の敵にされていた。

 音楽におけるフランスとドイツの違いは何か?その一端を言語に見たと、ピアニストの桑野さんは仰っていた。ドイツ語はとにかく正確にきっちり発音し、ルールを逸脱しない。一方フランス語は省略するは、勝手にくっつけるは…特に笑うのは、発音が面倒なものは、どんどん無かったことになってゆく。絵画に例えるとするなら、ドイツは決められた絵の具で決められたサイズのキャンパスにきっちり描く(きっと納期も守るのだろう)。ところがフランスは、勝手に色を作るは、キャンパスは自分の描きたいサイズ、納得するまで書き続けるので、納期なんて有って無いようなもの(イタリアもほぼ同じ)。決まりより感性を優先する。まあ、描くだけ真面で、下手したら、「描けなかったわー、ごめんね」で終わってしまう。

写真:担当教官
担当教官だったマーク、
仏料理の基礎となる郷土料理のスペシャリスト
 この感覚の違いを目の当たりにする事は、私が通ったパリの調理学校でも日常茶飯事だった。有名な調理学校には世界中からシェフの卵が修行にやってくる。私のクラスには目の血走ったドイツ人が3名ほどいた。この学校では、材料表しか渡されず、レシピは、午前中に担当教官のデモンストレーションを見ながら自分でメモを取り、午後の実習で実践をするというスタイルだった。勿論教官はフランス語のみ、通訳で英語も入るが、細かいところまでは通訳しない、というか、教官があまり細かいことは話さず、兎に角実演をする。で、一通り華麗な調理技術を、メモを取りながら見終わると、生徒からの質問時間が設定されている。手を上げるのは決まってドイツ人で、その内容はというと、「さっきのオーブンは何度で何分でしたか?」「焼けたと判断するサインは何ですか?」「何分煮込むのですか?」「その素材の厚さは何センチですか?」等々細かい数字を聞きたがる。その度教官は「いい感じで焼けると思う温度です、いい匂いがして来たら焼けてます」「親指の付け根と同じ雰囲気になったらOKです」「火が通る厚さです」とのらりくらり。日々不毛な時間が流れ、ドイツ人生徒たちは「あの教官はいい加減だ!!クラスを変えてもらうよう抗議だ!!」と不満たらたら。一方の教官は「レシピ通りの料理なら、家の母ちゃんだって作るぜ」とあきれ顔。おかげで他の生徒(アメリカ人、北欧人、アジア人)はコントのような授業に退屈することなく卒業を迎え、免許を頂くことができた。

 さて今回、演奏が終わって衝撃的だったのは、参加者38人中36人が「ドイツ音楽が好き」と答えたこと。「フランス」と答えたのはたった2名だった。悔しかったからアンコールでドビッシーの「月の光」をリクエストした。この曲を初めて聞いたとき、「クラシック界のジャズだ!」と鳥肌が立ったのを覚えている。彼の描く音はキャンパスすらない、まるで夜空で星々がそれぞれ光瞬くような美しさを思わせる。とってもロマンティックだと個人的には思っていたのだが、この変拍子、聞きなれないと訳わからないのかな…。でも日本人はもともと三味線だの、小唄だの長唄だの…変拍子、転調は当たり前の音楽に慣れ親しんできたはずなのに…その原因は何だろう?と調べ始めたら、どうやら1900年代初頭、三菱財閥の岩崎小弥太と音楽家の山田耕筰あたりに火種を発見。面白そうだけどこのお話しは長くなりそうなので、またいずれ。

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コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.130
コラム【「ほん」のひとこと】

株式会社 正文館書店 取締役会長
谷口正明

『 箱の中の天皇 』
赤坂真理著・河出書房新社

 「アメリカで天皇の戦争責任を問われる日本人少女の目を通して戦争と戦後を描いた」小説『東京プリズン』(2012年)の著者・赤坂真理の、雑誌「文藝」2018年冬号に掲載された新作です。
 日本とは、国体とは、天皇制とは、戦後とは、アメリカによる占領とは、・・・。平成28年8月の平成天皇の「お気持ち」と呼ばれるメッセージの意味も探りながら、いま私たち一人一人が直面しているはずの問題を、小説という取っ付き易い形で投げかけています。「箱」とは何を象徴しているのでしょうか。
 『愛と暴力の戦後とその後』(赤坂真理著・講談社現代新書)を併読されれば、より理解が深まると思います。

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【お知らせ】

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