テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第98回 』
料亭つたも主人
深田正雄(栄ミナミ地域活性化協議会)
後藤新平の第二故郷、天王崎町・洲崎町(栄1丁目南)
明治の元勲、後藤新平。青春時代は洲崎神社の近隣に住み、天王崎橋南東にあった愛知医学校の若き校長として19歳から6年間を大須にて過ごしました。
大須1-5、後藤新平宅跡説明 |
2007年10月名古屋大学創立70周年記念事業で建てられた堀川沿いの記念碑(栄1-19)。麻酔医・ローレツ、執刀・後藤新平、腕を支える司馬凌海が描かれています。 |
ウイキペディアによれば:安政4年6月4日(1857年7月24日)〜昭和4年(1929年)4月13日)は、日本の医師・官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。そして、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁,拓殖大学第3代学長を歴任した。
計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した。
後藤新平は、陸奥国胆沢郡(現・岩手県奥州市水沢区)にて、仙台藩・留守家(るす家)家臣の下級武士後藤実崇(さねたか)の子として生まれました。新政府に抵抗した賊軍でありましたが、胆沢県庁の幹部・安場保和の薫陶を受け、須賀川医学校を出て医師となりました。その後、愛知県令となった安場から愛知県医学校に医師としてスカウトされ、月給10円でスタート。オーストリアからのローレッツ先生、語学の天才司馬凌海のもとで勉学に励み、24歳で学校長兼病院長として実績を残した後、内務省衛生局入りしたことが官僚へ転じる契機となったといわれています。
名古屋仮病院・医学校は明治4〜5年に名古屋藩評定所跡(丸の内3-1、産業貿易館本館)に開設、その後、大須西本願寺内に移設され、明治10年7月に愛知医学校として天王崎・御普請方役所と千賀与八郎・虎吉宅跡地(尾張藩重臣 禄高1400石・師崎水軍は大坂冬の陣と夏の陣で活躍し勇名を馳せる・現在のトーエネック本社)に移転、明治43年関西府県連合共進会後、整地された鶴舞公園北に大正3年(1914年)3月愛知県立愛知病院となり、現在の名大医学部付属病院に至っています。
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明治43年・病院東は三蔵学校 |
1900年頃の愛知病院と愛知医学校・堀川より東を望む。(現在はトーエネック本社) |
イケメン青年新平は名古屋一の繁華街大須で若き生活を楽しみ、自宅の裏は「旭遊郭」でしたので、さぞ名古屋の遊興と芸能を満喫したと思われます。
私は新平の名古屋での功績を3つ挙げたく思います。第一は、新設の愛知医学校の発展から名古屋大学付属病院への礎、そして、2つ目には海水浴普及があります。明治14年夏、愛知県職員の保養所を知多の大野海岸に作ることとなりました。大野海岸の海音寺・その宿坊「恩波楼」では昔から「汐湯治」といって健康・治療のために海で泳ぐ習慣がありました。新平は、大野を世界最古の海水浴場として売り出すよう手ほどきし、中京屈指の海浜リゾートとして発展するまでに導きました。明治15年には後藤の記念すべき出版第1号「海水功用論」を著し、一般人に海水浴を紹介しております。その後、明治の終わりには愛知電気鉄道が引かれ、名古屋の別荘地として開発されてきました。
「おんぱろう」は現在でも、老夫婦が昔からの建物で営業を継続、料金も一泊2食4500円からと、とてもお値打ちのようです。
恩波楼:
日本最古の海水浴場 大野浜 に接する由緒ある旅館です。 心洗われる 伊勢湾に沈む夕日と夜景歴史ある大野町の中で、いつまでも残しておきたい宿にあげられています。
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3つ目の功績は、後藤が全国にその名を知られるようになった板垣退助襲撃事件!
自由党総理・板垣は勢力の強い三河から愛知自由党・愛国交親社メンバーを核に、東海道遊説の旅を明治15年3月に開始いたしました。3月27日名古屋に入り、29日午前は大須大光院で、午後は門前町博物館で決起集会、イベントは「撃剣興行」のチャンバラショーで人集め、勿論、後藤新平や同志の仲間も参加したようです。各地で興行して4月6日には桜花爛漫の岐阜・金華山麓で大演説会。玉井屋旅館(現在は鮎の形の和菓子で有名)への帰途、待ち伏せていた士族・相原尚文に「国賊、覚悟」と襲われ胸と手にかなりの傷を負いました。その時、流血の板垣総理が刺客を睨みつけ「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ有名な「板垣総理岐阜遭難」の一幕…そして、同行の内藤魯一が3月末に親しくなった愛知病院院長・後藤の来診を仰いで一命をとりとめたとのお話です!
新平は板垣閣下をみるなり、「閣下、さぞかしご本望でしたでしょうな!」と板垣の心中を見抜いたような一言を投げかけ、党員は度肝を抜かれたそうな。この出会いで新平の後の政治家としての人生に大きく影響したといわれています。
東海高校の歴史教諭、自由民権運動研究家・長谷川昇先生曰く「治療で板垣は元気になったが、代わりに自由党の民権運動は死んだ!!」生徒は爆笑で大喜びの講義でした。昭和41年、深田正雄東海高校3年思い出の授業です。
その年、新平は安場保和の次女和子(17歳)と結婚、翌年、医学校での実績や才能を見出され、東京・内務省衛生局に入省、医者としてよりも官僚・政治家として衛生・保健行政に従事することとなりました。
後藤新平を顕彰する「後藤新平の会」(事務局長・藤原書店 藤原良雄氏)は2007年に設立され、新平の業績を正しく評価するための研究を行い、その遺産を継承し発展させてゆく活動で、毎年の後藤新平賞、会報の出版など地道に啓蒙活動を継続されています。http://goto-shimpei.org/
また、生まれ故郷の岩手県奥州市水沢には後藤新平記念館で生い立ちや偉業の見学ができます。
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/
しかしながら、若き新平の名古屋時代について、地元大須でも語られることも少なく、名大医学部創立者としてのPRも不足しているように思われます。この度、6月22日市民まちづくり風の会(代表:石浦薫)主催、大須演芸場での「後藤新平と衛生(いのちをまもる)のみち」イベントで大須や洲崎神社界隈での若き新平の物語を楽しみにしております。
6月22日後藤新平顕彰イベントポスタ―
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トーエネック敷地の銘板、堀川対岸から東・2019年6月撮影、
後方はグランアベニュー栄、右はトーエネック本社 |