テーマ: 『 多文化共生−和を以って貴しとなす− 』
日 時:20年1月22日(火) 17時30分〜18時30分
場 所:名古屋観光ホテル 2階 曙(西)の間
参加者:55名
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スピーカー:
中部経済同友会 代表幹事 岩崎 骼 |
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ノリタケは、1904年(明治37年)に森村市左衛門によって日本陶器合名会社として設立されたのが始まりである。更にその起源は、ペリー来航で鎖国が解かれたばかりの日本へ遡る。当時は、欧米から様々な文明が流れ込んでくる中、国家財政を支える金(きん)が闇雲に流出していた。これは、当時の世界相場と比べて日本が金安銀高であることが原因であったのだが、こうした海外との不平等な取引のあり方に疑問を抱いたのが若き日の森村市左衛門だった。こうして市左衛門は、福沢諭吉の勧めもあって海外貿易を決意する。外国人と海外貿易をするには外国語を学ばねばならず、丁稚奉公に行っていた弟の豊(当時13歳)を呼び寄せ協力を求めた。豊は外国人から英語を学び、慶応義塾で学問を学んだ。森村兄弟は1876年、東京銀座に貿易会社の森村組を設立し、豊はアメリカに出発した。仲間とニューヨークで小売商を開業した豊は、東京の兄・市左衛門が送り出してくる日本の骨董品の販売を始めた。幕末における貿易の多くは、日本に来た外国人が長崎の出島や横浜の外国人居留地で行っていたものであり、日本人が外国に渡り、西洋との本格的な貿易をしたことはなかった。また、当時の政府による輸出奨励でアメリカに渡って貿易を始めた会社も何社かあったが、一時隆盛を極めたものの、長続きはしなかった。政府の援助に頼らない森村組はノリタケとなった今日まで続いている。私ども、ノリタケを始めとしたTOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業が、森村グループと言われる所以である。
ノリタケは1876年にアメリカに登録した日本企業の第一号である。それから130年が経つが、思えば日本の近代化が始まったのはまさにその頃であった。当時、アメリカへ渡った日本人はその殆どが20代の若者達であり、こうした若者達が日米通商を拓いていった。日本がこれだけ栄えてこられたのは、このように外国が外資である我々を受け入れてくれたからであり、これからは我々が外資を迎える番ではないだろうか。
私は今から47年前にノリタケに入社したが、この内、31年間を外国で過ごした。最初に日本を出たのは東京オリンピックの翌年のことである。ノリタケはアメリカに洋食器を売ることを目的に作られた会社で、出ていけばなんでも売れる時代でもあった。それで、当時の役員に「世界中にまだたくさん国はある。他の国にも売ってこい。」と言われ、行ったのがオーストラリアだった。当時のオーストラリアは白豪主義が罷り通り、白人でなければ人間扱いされないという世界で、事実、私も激しい差別や排斥に遭った。ところが、どんなときも必ず「待て」という人がいて私を守ってくれた。育児や日々の生活などでもたくさんの人々の助けを受けた。すると次第に、「地球には色んな人がいるが個のベースでは何も変わらないな。」という温かい気持ちが芽生えてきて、次第に偏見というものが自分の中から薄れていった。そんな私を見ていると向こうも次第に偏見がなくなり、段々と心を開いてくれるようになる。恐らく本音でぶつかっている間にお互いがなに人かなど忘れ始めるのだと思う。このときの経験が私にとって最も大きな転換点だったと思う。
オーストラリアの次はニューギニアで、その後、南アフリカに行った。南アも当時はアパルトヘイトの最もひどい時期で、白人以外は何もかも酷い待遇だった。これは大変だと思って領事館に行くと、「日本人は名誉白人だから、パスポートを見せれば白人並みに扱われる」と言われたが、それがトラウマとなっている。人種差別がいけないことは分かっている。しかし、白人の扱いをしてやると言われると、パスポートを見せてしまう。この「名誉白人」というようなものが日本人のどこかに今も巣食っているのではないかと思うのである。考えてみると、侍は外国へ行っても刀を差し、まげを結って威風堂々としていた。日本語しか話さなかったが、凛としたすごいやつらだという尊敬の目で見られていた。ところが欧米文化を追及し始めた頃から日本人は、中途半端になってきたのではないか。最近、日本はアジアの時代だといって中国や韓国に目を向けている。しかし、その国の人達が思いもかけない態度を示すことがあるのは、我々日本人が「名誉白人」の顔をどこか持っているのではないか。
最後にニューヨークに15年間いたが、日本で我々が聞いていたアメリカとの落差に驚いた。メディアは、世界中は嫌米と厭米で満ちていると伝えるが、毎年世界中から故国を離れ、移民が集まってくる事実がある。アメリカにはそれだけの魅力があり、人生を掛けようと思う人々がたくさんいるのだ。また、アメリカ人のイメージは大声で市場主義で弱肉強食だが、殆どの人は含羞を持った静かな人達だった。アメリカで国連を冷ややかに見ているのもそれはアメリカそのものが国連のようなもので、理想ではなく毎日現実問題として対処しているからだ。さて、アメリカで3億人もの多様な人種から成る人たちが暮らしていけるのは、絶えず多文化共生の心を持っているからであり、同時に、「私はアメリカ人だけどイタリア人だ。」というように自分のルーツ、スタンスをはっきり持っているからである。従って、日本を捨てるという発想を持ったら大間違いで、多文化共生の心を持つと同時に日本人であることを示すことが世界から実は尊敬されることだと私は信じて疑わない。
65億キロ先から地球を見ると、米粒よりも小さい地球が宇宙の暗黒の中にぽつんとある。この小さな中で我々はしのぎを削っているに過ぎないのかと思うと、宗教や人種も大切だが、もっと違う価値観が生まれてくるのではないか。これからの子供たちはこうしたことを益々はっきり意識するようになるだろう。そこでは、日本人の最も得意とする「和」の心が大切になってくるはずだ。いろんな人を受け入れ、自分たちのスタンスをはっきりと伝えて手を差し伸べて生きていく。そうすれば、必ずや世界の発展や平和のために貢献できるはずだ。そのためには、我々自身がまず多文化共生を受け入れようではないか。特に、古い先入観を持たない日本の凛としたグローカルな若者たちが、多文化共生の新しい日本を創ってくれる事を願っている。
◆「新年合同懇親会」風景
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