テーマ:『
遊び心の80年
』
日 時: 6月21日(水) 12時00分〜14時00分
場 所: 名古屋観光ホテル 18階 オリオンの間
参加者: 12名 |
スピーカー:
渡辺 豊(わたなべ ゆたか)氏
株式会社ワーロン 取締役会長 |
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皆さんのお手元に傘寿記念を置かせていただいた。還暦、古稀、喜寿というのは、古くからある慣わしである一方で、傘寿はどうもそうではないようだが、傘の略字が、八と十で、80歳の祝いということになっている。私の父親は、101歳で、白寿の祝いも過ぎた。百から一を除くと白という字になることから、99歳が白寿ということになっている。
さて、記念品は寿の字を将棋の駒の形の木札に書かせていただいた。この寿の字は、ワーロンがセルロイドの玩具を製造していた頃、お正月向けの縁起物として、稲穂や小判、鯛や宝船を作っていて、その縁起物の表面に寿の字を書いていた。当時は、それを印刷ではなくて、何千枚と書いていたので、思い出の文字でもある。落款の石鼓は、自分の雅号で、書の師匠である長谷川流石先生の名の一字と子供という意味を掛けて石鼓とした。
今日のタイトルの「遊び心」とは、自分の書道感のことで、書道を長年やっているが、それは趣味とか道楽の類であって、これで身を立てるとか、生活するという考えがなかったということである。
書道は、自分が小学校の1年生の時に、学校の授業で学んで、その時にもらった成績が乙だったために、父親に窘められて習い始めたのがきっかけだ。したがって、一番最初は、成績を良くするためだった。当初は自宅でやっていたが、やがて先生について学ぶことになり、その時の師匠が、長谷川流石先生だ。この方は日本銀行に勤められた方で、書道不律会を主宰し、弟子には日展作家も数多くいる。
8歳の頃、先生に勧められて、中部日本書道聯盟主催の席上揮毫大会があり、それに参加した。条幅の作品を書くのに、小さな体で四つんばいになって書いた。この大会は、当日に審査されて、褒状(特選)以上の発表があったが、自分の名前はちっとも出てこなかった。諦めて、帰ろうかと思っていたところ、最後の11人の個人賞に入っていた。賞状をもらい、記念撮影があって、新聞にも掲載された。この出来事は、こども心に大変嬉しかった。
小学校を出て、現在の中京高校にあたる中京商業へ進学すると、そこにも大変良い先生がいて、自分の力を伸ばしてくれる教育をしてくれた。学校も、褒状以上だったら、出品料も表具代も補助するということで、いろいろな展覧会に出品した。それで、小遣いには事欠かなかった。
長谷川先生の甥の方が、旅順の師範学校におられ、たまたまその方と知り合って、その学校に行こうと受験して入学することになった。しかし、旅順に行って3ヶ月もすると満州熱にかかって結局、名古屋に戻ってくることになり、母親の里である春日井でしばらく病気静養のかたちで生活していた。そこの又従兄弟が女子師範学校に入っていたが、学徒動員で、勤労奉仕に行くというので、学生の腕章を書く仕事をちゃっかり頼まれたりしたが、その中の一つの腕章に家内のものがあったらしい。
昭和20年5月、いよいよ病気も治って、旅順の師範学校に復学願いを出していたところ、6月の新学期からの復学許可が来た。そのため、渡航のための学生割引証を待っていたら、今度は召集令状が来た。いよいよ出征という時に、腕章を書いてもらった御礼をしたいと学徒代表の人が見送りに来てくれたが、その代表の一人が今の家内だった。しかし、出会った時は、特に、結婚の約束をしたわけでもなく、お役に立てばと、革の手帳とステテコ、千人針の袱紗をもらっただけだった。入隊するとすぐに上官から「字の書けるやつはおらんか」というので自分が申し出たが、そのお蔭で指揮班に配属され事務的なことを任された。中隊長も書の造詣がある人で良くしてもらった。そうこうして、3ヶ月で兵役を終えて復員したが、旅順に行っていたらどうなったかと思う。
師範学校に行こうと思っていたことから、教育者になるつもりだったが、家を継ぐことになった。その家を継ぐことには相当の抵抗があったが、叔父に仕事をするということは傍(ハタ)を楽(ラク)にすることだと諭されてやることにした。
家内との結婚は、昭和23年4月17日で、子供も3人に恵まれた。仲人をさせていただいた中に、自分と同じ日に挙式を上げた方が2組あり何となく縁を感じる。たまたま、ピアノは、家内と結婚前に入鹿池でボートに乗って遊んだ時に、結婚して女の子が生まれたらやらせたいと言っていたことが実現して、長女は最初名古屋合唱団に入り、高校からは桐朋学園で学んだ。当時は、生活は楽ではなくて、借金をしながらピアノをやらせたが、学校への寄付金は最低であること、寮生活ができることを条件に送り出した。今は、あちこちでコンサートなどもやっているようだ。
そもそもピアノへの憧れは、旅順にいた夏のある日、月の夜で、窓を開けていると「月光」を奏でる人がいて、感動したことに始まる。そういう次第で、自分が好きなピアノを長女がやり、次女は愛教大の音楽科でピアノを、そして長男のお嫁さんが県立芸大のピアノ科を出ていて、偶然というか不思議な縁を感じる。また、長女の名は仁美、次女が美典、お嫁さんは久美で娘3人に美がつくのも縁が感じられる。
これまで、何度か命拾いをした。一つは赤ん坊の時で、肺炎にかかって生死を彷徨った。二つ目は、学生の頃、家業を手伝って、荷物を運搬中に荷馬車とぶつかり、工事中のマンホールの穴に落ちるすんでのところで、引き上げてもらったことだ。3つ目は、終戦間近な昭和20年の5月14日、名古屋が空襲で燃えているときに、弟と田舎道を歩いていると機銃掃射の弾が、自分と弟の間を通っていった。その差は1.5mぐらいだったかと思う。
いずれにしても、こうして助かったのは幸運に恵まれているからだと思う。
三度の火事にもあった。一つは、昭和の初めで、店員がタバコを捨てて、それがセルロイドのくずの中で燃え上がり、住居と仕事場が全焼してしまった。二つ目は、昭和20年の空襲。3つ目は、昭和38年の原因不明の火災である。
世に言う火事太りということは、確かにあると思う。しかし、それは保険とかで大きくなるということではなくて、火事で失ったものを取り戻すために必死で働いて、その結果としてなるということだと思う。
今、自分の書道は、会社を経営する長男が、御礼をするからちょっと書いてくれと頼まれた時に多少は役に立っている。趣味でやってきたからこそ、そういうことも出来るように思う。
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