テーマ:『 名古屋の商人“伊藤次郎左衛門”400年の歴史 』
日 時: 2月15日(水)12時30分〜14時00分
場 所: 名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者: 33名 |
スピーカー:
佐藤 允孝(さとう よしたか)氏
NPO法人“揚輝荘の会” 事務局長
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1 伊藤家・松坂屋400年の歴史
始祖は、織田信長三蘭丸の1人伊藤蘭丸祐広(800石、妻・千村氏)。慶長16年(1611)清洲越しの商人祐道(妻・千村平右衛門の姪)が本町で呉服小間物問屋を創業した。これが松坂屋の始まり。万治2年(1659)祐基(すけもと)、 茶屋町に呉服小間物問屋を再開業した。以降250年、ここ(現在のアイリス愛知)で営業し、「次郎左衛門」を名乗った。元文元年(1736)祐寿は呉服問屋から呉服太物小売商に転業し、6ヶ条の掟書「人の利するところわれも利する」、 「正札、現金かけねなし」という抜本的な改革を行なった。延享2年(1745)祐寿は京都室町姉小路に仕入店を開設した。この時期、10年で店主が4度変わるという危機が訪れたが、宇多と番頭伊比儀兵衛らの努力で乗り越えた。明和4年 (1767)祐恵・宇多は、家訓・永代家相続掟目を定める(17ヶ条)営業方針を出した。明和5年(1768)上野の「松坂屋」利兵衛を4517両で買い取った。安永元年(1772)上野店全焼、天明元年(1781)名古屋店焼失、 天明8年(1788)京都店全焼、寛政3年(1791)上野店全焼、この時期大小12回の火災にあった。しかし、各方面の協力もありすぐに復元し、災い転じて福となしてきた。
寛政10年(1798)藩主お目見、文化2年(1805) 江戸大伝馬町一に木綿問屋を開業(亀店、後のサンメン商事)した。天保4年(1833)尾張徳川お召服承り手違い、御用差止めとなった。天保13年(1842)祐良、大般若経600巻の写経始める、御用金4万両、天保15年(1844) 上野店、御用金200両、嘉永3年(1850)高祖絵詞伝完成、御用金・三人衆で4万両、安政3年(1856)御用金1500両、名古屋車町に木綿問屋を開業(松店)、御用金1万8千両など多額の御用金を納め、幕政に大きな貢献を果たしてきた。
明治6年(1873)藩債問題は、@天保14年(1843)以前の藩債失効、A弘化元年(1844)〜慶応3年(1867)までの藩債は公債として明治5年から50ヶ年賦・無利息償還、明治8年(1875)愛知県為替方となり、 茶屋町角に出納所を開設し、大阪新町通、「ゑびす屋いとう呉服店」を開店した。明治14年(1881)伊藤銀行を設立(名古屋で最初の私立銀行)し、明治34年(1901)祐昌は店則43ヶ条(接客、品揃え、店員心得など) を制定した。明治41年(1908)祐民は「意見書」を書き、明治42年(1909)伊藤産業合名会社を設立(資本金30万円)し、祐民は渡米実業団(渋沢栄一団長)の一員として米国視察した。明治43年(1910)株式会社 「いとう呉服店」資本金50万円で設立、社長は祐民(33歳)、支配人鬼頭幸七(34歳)、中区栄町に百貨店(鈴木禎次設計)を開店した。大正6年(1917)上野店、4階建て百貨店(鈴木禎次設計)として新築開店し、 大正8年(1919)揚輝荘落成した、大正13年(1924)祐民十五代襲名、銀座店開店、全館土足入場など、当時では思い切った改革を行なった。大正14年(1925)南大津町に新百貨店を新築、社名を「松坂屋」に統一した。 昭和4年(1929)上野店7階建て新本館開店、昭和5年(1930)祐昌没。昭和7年(1932)静岡店開店、昭和8年(1933)中興の祖といわれる祐民、社長・公職を引退し、財団法人「衆善会」を設立した。昭和22年 (1947)伊藤産業合名会社合併、昭和42年(1967)伊藤鈴三郎社長、以降、国内各地をはじめ海外でも店をオープンさせた。平成11年(1999)には現在の岡田社長が就任した。今後は、平成22年(2010)に 株式会社設立100周年、平成23年(2011)創業400年を迎える。松坂屋の創業は三越より古く、最も伝統があるデパートである。
2 揚輝荘について
揚輝荘は、松坂屋初代社長伊藤次郎左衛門祐民によって、覚王山日泰寺の東南に隣接する1万坪の森を切り拓いて築かれた別邸である。この構築は、大正7年(1918)、茶屋町本家から煎茶の茶室・三賞亭を移築改修したときから始まり、20年間ほどで完成している。最盛時には、移築・新築された建物30数棟が建ち並び、池泉回遊式庭園とともに覚王山の高台に威容を誇っていた。戦時中に空襲を受けたり、松坂屋の独身寮になったり、一部マンション開発が行なわれたりして、かつての面影は失われつつあるが、残された近代建築は、今なおその風格・魅力を失っておらず、地域の文化遺産として後世に引き継ぐべき資産であると考えられる。
残っている建築資源としては、揚輝荘のランドマーク的存在である「聴松閣」や徳川家から移築された座敷と茶室に鈴木禎次設計の洋室を合体させた「伴華楼」などがある。聴松閣は鉄筋コンクリート造地下1階、木造地上3階の建物で、外観は瀟洒な山荘風である。玄関の床は、100年以上の年輪が見られる丸太の木口を敷き詰め、扉はケヤキの一枚板が用いられている。舞台付きの舞踏室、壁面や柱にはインド風の装飾、広間にはインドの留学生が描いた壁画も残されており、異国情緒を漂わせている。
3 「揚輝荘の会」について
上述の通り揚輝荘は、歴史、文化、近代建築など多くの要素を持った地域の資産であり、これを保全・活性化し市民のために活用するため、「揚輝荘の会」(NPO法人申請中)を立ち上げた。この会では、(1)近代建築の調査・研究・保全、(2)庭園・緑地の調査・研究・保全、(3)市民参加型イベントの開催、(4)国際交流の場づくり、(5)まちづくり・生涯学習、(6)広報・交流事業、などを行なっている。 引き続き皆さんの積極的なご支援ご参加をぜひお願いしたい。
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