テーマ:『 国鉄からJR、そして今 』
日 時: 1月18日(水)17時30分〜20時00分
場 所: 名古屋マリオットアソシアホテル 講演会:16階アイリスU/懇親会:16階アイリスT |
スピーカー:
松本 正之(まつもと まさゆき)氏
中部経済同友会代表幹事
東海旅客鉄道株式会社取締役社長
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1 国鉄からJRへの軌跡
昭和24年に発足した日本国有鉄道(国鉄)は「独立採算制」を求められながら、設備投資・運賃・賃金は国会の議決に委ねられ、総裁・役員等の人事も政府の承認を要した。この中途半端な形式により、例えば、政治は新線の建設投資を求める一方で運賃値上げには反対するというような矛盾を抱えることとなり、当事者能力の欠如から国鉄当局および労働組合はともに政治の力を恃む動きに傾斜していくこととなった。
一方、国鉄を取り巻く競争環境は大きく変化していった。即ち、物流構造の変革(工場立地、エネルギー転換)が貨物鉄道の衰退を招き、自動車の普及と航空網の発達が旅客鉄道の活躍できる分野を狭めていったのである。その結果収支状況は、昭和39年度に単年度赤字となり、昭和46年度には償却前赤字に転落するなど悪化の一途を辿った。この間、度重なる再建計画が国鉄自身によって立案されたが、いずれも根本的な解決策ではなく、妥協的・先送り的なものであったため、ことごとく破綻していった。
この間、運賃値上げやローカル線廃止、或いは人員合理化といった再建計画の実施を巡る綱引きが政治の舞台で行われ、そのため国鉄幹部は政治依存・族議員との結びつきを深め、一方労働組合は人事への容喙を強めストを重ねるなど、国鉄内部は昭和50年代を通じ、大いに混乱を極めることとなった。
このような状況下、昭和56年にスタートした第二次臨時行政調査会(第二臨調)では、全ての面で行き詰まった国鉄の経営改善が大きなテーマとなり、昭和57年には分割・民営化を柱とする答申を行った。その後、第二臨調を受けて設置された国鉄再建監理委員会により更に審議が重ねられ、昭和60年7月に、国鉄事業の再生を目指し、分割・民営化を行うべきと結論とする最終答申が出された。度重なるストや職場規律の乱れに嫌気がさしていた国民もこれを強く支持した。
一方、再建監理委員会の議論が分割・民営化に傾くに至っても、国鉄幹部の多くは、依然、現行計画の延長線上の解決や全国一本の民営化を志向し、分割・民営化を支持する改革派を左遷するなどの動きに出、また、最大労組である国労は分割・民営化に断固反対の姿勢を貫くなど事態は一進一退を繰り返していた。しかし、昭和60年6月の中曽根首相による国鉄現状維持派幹部の一斉更迭および昭和61年に行われた衆参同時選挙での自民党の圧勝により、流れは一気に分割・民営化の方向に動くこととなった。そして、昭和62年4月、国鉄は分割・民営化され、旅客会社の一つとしてJR東海が誕生する。
国鉄の末期、国労は分割・民営化という時代の大きなうねりの中、組合員数を急減させることとなった。この時の経験から、私は、「人の心はどう流れるのか」について、次のように考えている。
@人は安きに、そして強きに従いたい。本音は隠れている。
A個人の本音は、自分自身の利害や将来に決定的に関わる場合にのみ出てくる。
B周りの誰かが動けば、自分も安心して動く。
C人心は、雪崩が打ち始めると止まらない。
そして、公営企業を民営化する際には、@あるべき姿はできる限り徹底することが、まず必要である。Aしかし、長年の歴史的経緯もあり、ある程度の妥協はあり得る。Bしたがって、将来の軌道修正の余地を残しておくことが大切、と考えている。
2 矛盾の解消(特別な会社から普通の会社へ)
JRは政治的に作られた会社であるため、経済原則とは合致しない矛盾をいくつも内在してスタートした。特に本州三社(JR東日本、東海、西日本)の収益調整システムとして設けられた「新幹線リース制度」は、新幹線鉄道施設を新幹線保有機構に保有させながら、維持更新はJRの負担で行わせることなど、一般のリース制度とは大きく異なる矛盾に満ちた制度であった。また、リース料は2年毎に輸送量に応じて改訂されることなどから債権債務関係が確定できず、このままでは株式上場は不可能な状況であった。そこで、平成3年に新幹線リース制度を解消。その際にJR東海は東海道新幹線施設の収益調整分を背負う評価額で買取り、その結果、約5.5兆円という巨額の長期債務を負担することとなった。その後、本州三社は株式を上場(JR東海は平成9年)し、平成13年にはJR会社法(特別法)の適用対象から除外となり、商法に基づく「普通の会社」となった。
3 JR東海発足後の取り組み
JR東海のこれまでの取り組みとして、4点についてお話したい。
(1)東海道新幹線の再生
昭和39年の開業以降、さしたる革新もなく伸びきったゴムのようになっていた東海道新幹線を「弾力ある」新しい新幹線とするため、各種の輸送力増強投資を行ってきた。その最終形として、平成15年10月には、すべての車両の最高時速270km/h化と東海道新幹線品川駅開業を同時に実現し、東海道新幹線はいわば「第二の開業」を成し遂げた。
(2)在来線ダイヤの改善
国鉄時代の東海道本線は、1時間に1本の時間帯があるなど、運転本数も少なく運転間隔もバラバラであったが、JR発足後、時間もパターン化し、「当たり前の」利用しやすいダイヤとした。
また、特急列車は「ワイドビュー」という統一コンセプトのもと新型車両を積極的に導入した。
(3)事業の多角化
国鉄時代には制約を受けていた関連事業分野へも積極的に進出を図った。JRセントラルタワーズの事業はその好例である。
現在は、「強い事業をより強く」という思想のもと、駅に近い(好立地)場所で、人材・ノウハウを有する事業を、圧倒的な規模と斬新さをもって展開していくことを目指してきている。それと同時に、不採算店舗の整理も順次行ってきている。
(4)意識改革
JR東海が発足したからといっても、人そのものが変わったわけではない。人はもともと、仕事をきちんとしたい、評価されたい、世の中の役に立ちたいといった常識的な考えをもっているのであり、国鉄改革は、これらを妨げる誤った価値観や制約を取り去ったといえよう。
そして、JRでは、常識的な企業人としての本来の姿を作り上げるために、「新しい革袋(=経営理念、社員教育、制服等)」を用意し、全面的な意識改革を図った。また、駅設備のリニューアルや斬新なTVCMの展開等により、企業イメージのアップを図ることも、社内的には社員のモチベーションアップに大きく寄与した。
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