第14号 2003.7.29発行



 メールマガジン ■産懇宅配便■

平成15年7月度(第14号) 目次
【産業懇談会(水曜第1G)】  6月25日(水)12:30-14:00
マスプロ電工(株) 取締役社長 端山 孝氏
マスプロ美術館見学と講話「古九谷焼は有田焼である」
【産業懇談会(木曜G)】  6月19日(木)12:30-14:00
(財)地域総合研究所 理事長 大澤 寛氏
「国づくりの文化自然誌」
【産業懇談会(火曜G)】  7月8日(火)12:30-14:00
鉄建建設(株)名古屋支店 執行役員支店長 村樫源太郎氏
「過去の震災に学ぶ」
【産業懇談会(水曜第1G)】  7月16日(水)12:30-14:00
(株)リブネット 代表取締役 馬渕裕嘉志氏
「未来写真システム」
【産業懇談会(水曜第2G)】  7月9日(水)12:30-14:00
(株)TCP 代表取締役 横井亮一氏
「暮らしに役立つインターネット −インフラになったインターネット〜初級編〜」
【産業懇談会(木曜G)】  7月3日(木)12:30-14:00
落語家 三遊亭圓窓師
「落語の中の教育」
【新会員自己紹介】
伊東 賢二氏 中部冷熱株式会社 取締役社長
伊藤 隆氏 株式会社安部工業所 取締役中部支店長
大西 美知太郎氏 株式会社NTTマーケティングアクト名古屋 代表取締役社長
輿石 邦豊氏 東レ株式会社 名古屋支店長
小林 正明氏 エヌ・ティ・ティ・シスコム株式会社 代表取締役社長
鈴木 泰寛氏 アイシン開発株式会社 取締役社長
【9月度産業懇談会開催日程】
【お知らせ】
【コラム】〔名古屋“水と街道”散歩〕No.6
【コラム】〔苗字アラカルト〕No.14



【15年6月度産業懇談会(水曜第1G)模様】

 テーマ: 「古九谷焼は有田焼である」

日 時:6月25日(水) 12時30分〜14時
場 所:マスプロ美術館
参加者:27名

スピーカー:
マスプロ電工(株) 取締役社長

端山 孝氏


 http://www.maspro.co.jp

 猿投古陶器

名古屋市の東方の東山、岩崎、折戸、黒笹などの地区には猿投古窯の存在が確認されており
マスプロ美術館はこの中心地にある。
  • 須恵器を生産していた堺市の陶邑古窯にかわって、5〜14世紀までの900年間、日本最大の窯業群であった。11世紀中期には東海地方に拡散、平安末期には猿投窯は常滑、渥美、東山に分散、東山窯は瀬戸へ移行して行った。
  • 鎌倉時代には中国からの磁器の輸入が増加、高級陶器の生産は普及品の山茶碗に変わり、以降衰退した。猿投古窯の特色はプロポーションの冴えと水挽ロクロ技術の冴え、白い肌で焼成の冴え。高級感がある。

 瀬戸古陶器

  • 瀬戸焼の歴史は猿投窯を継承した平安末期に始まる。常滑、信楽なども瀬戸と同期に継承したが、瀬戸だけは灰釉の技術を猿投窯より受け継ぎ独占した。
  • 鎌倉中期から印花文、画花文の文様を多く取り入れ、中期には鉄釉の開発に成功。鎌倉後期(1310年頃)には灰釉、鉄釉の技術が完成し、瀬戸の名声を高めた。
  • 室町後期に瀬戸山離散が続き、桃山期は空白になった。
  • 江戸期には有田磁器に押されるようになり、日用雑器が中心となった。
  • 1804年、九州に渡った磁祖、加藤民吉によって磁器の技術が伝わり、食器中心の日用陶磁器生産が盛んになった。

 常滑古陶器

  • 平安時代末期に猿投窯より陶工が移転し形成された。釉薬を塗らない方法を選び、瀬戸に対抗し日用雑器を焼成した。
  • 豊富な陶工と海上輸送の利を得て、大型の壺、瓶類が全国に販路を拡張した。
  • 南北朝時代に最盛期を迎え、室町時代に入ると地方窯に押されるようになった。特徴は水瓶の長頸に凸型と線刻があること。

 美濃古陶器

  • 室町時代後期に瀬戸の陶工が戦国の乱を避けてか、薪を求めてか、美濃へ移住。天正時代(1585年頃)には画期的な白釉の志野焼が生まれた。
  • 黄瀬戸、瀬戸黒焼等、中国の模倣ではない美濃独特の革新焼物が大量に生産されたが、1605年頃、登窯が出現、織部焼の生産がはじまり、1620年頃まで続いた。しかし1610年頃(江戸時代初期頃)には消滅した。
  • 桃山時代を風靡した美濃焼の名が出てくるのは幕末からで、1930年大萱で志野「竹の子」陶片が発掘されるまで瀬戸焼と思われていた。

 肥後有田古磁器、古九谷様式

  • 有田山辺田窯から肥前有田、古九谷様式色絵椿岩文大皿と同一の磁片が出土している。
  • 石川県九谷古窯の出土品は京焼のようなもので、古九谷様式の磁片は出土していない。
  • 科学的分析では、酸化チタンの含有量などで古九谷磁器は有田焼であるとの結論が出ている。昔から有田論があったが、今日では公的に結論とされている。

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【15年6月度産業懇談会(木曜G)模様】

 テーマ:「国づくりの文化自然誌」 

日時:6月19日(木) 12時30分〜14時
場所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間


スピーカー:

財団法人地域総合研究所
理事長

大澤 寛氏

 http://www.gri.or.jp


平成7年から4年間、中日新聞岐阜・近郊版で「変遷ムラおこし」という連載の執筆を担当するにあたり、岐阜県内の村々を取材して回った。また、(社)日本河川協会発行の「河川」に掲載された「水系をたどる」のために、国内の9つの河川とそこに暮らす人々を取材、(社)日本道路協会発行の「道路」への連載にあたっては、中央ヨーロッパを約3週間旅し執筆した。数々の取材を続ける中で強く感じたのは、今の世の中に対する不安である。それは、「子に頼れない不安」「財産に頼れない不安」「国家に頼れない不安」だ。

「子に頼れない不安」------
かつては親子がともに田畑を耕し生活することで、社会の中でのルールを学び、喜怒哀楽を共有していた。そして、仕事や土地は当たり前に親から子へ譲られ、また子は老親の面倒を見た。ところが、農耕社会から工業社会への変化とともに、そうした秩序は崩れてしまった。取材をしている先々で老いて残された親のとまどいや強がり、孤独感を目の当たりにした。

「財産に頼れない不安」------
かつては茶碗から家具にいたる全てを家財と呼んだが、今では買って自分の物となった途端、その物はゴミとなる。どうすれば財産のまま守れるか?個人は財産が当てにならない不安にさいなまれている。

「国家に頼れない不安」------
戦前戦後のようなエネルギッシュな活気に満ちた時代と比較すると、現在は構造改革・行政改革と言ってもむなしい気持ちが残るばかりだ。もっと国民が活力を持てる時代を望んでいる。

これらを踏まえ、今後我々が努力すべきことは何か。そのヒントをオランダにあった記念碑で見つけた。そこには「将来を立てないと民族はなくなる」とあった。これこそが、我が国が忘れてはならないキーワードではないか。前述した三つの「不安」、これらはかつて我が国が持っていた美しきものが崩れつつある証左でもある。我々はその美しきものを見直し、日本の将来に役立つことを実践していかねばならない。例えば、家族ぐるみ、地域ぐるみの交流が活発な社会づくり、また、胸を張って孫に引き継げる財産づくり(自身も「100年住宅」を研究中)、さらに、行政や地域とも協力しての、価値ある土地づくりなどである。世界に冠たる工業国家となった日本が次にすべきこと、それは「美しい」国家作りである。私自身も、「日本」そのものをあらためて見直し、美しい国土づくりを研究・実践していきたいと考えている。

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【15年7月度産業懇談会(火曜G)模様】

 テーマ: 「過去の震災に学ぶ」

日 時:7月8日(火) 12時30分〜14時
場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:21名

 





スピーカー:

鉄建建設(株)名古屋支店
執行役員支店長

村樫源太郎氏

 http://www.tekken.co.jp

 地震とは

日本では、地震は年に約1,000件ほど起きる。大半が太平洋側に集中し、特に東北地方で多発している。マグマの影響で地殻に歪みが出来ることによってプレートが移動し、地震は発生する。その結果、海水が跳ね上がって津波が起きたり、地盤が液状化し建物などの倒壊や沈下といった被害が起きる。地震の規模は、エネルギーの大きさを表す「マグニチュード」と揺れの大きさを表す「震度」で表される。


 過去の地震

死者が1,000人を超える地震は、関東大震災以降9回発生している。死者数は人口密度に関係するが、関東大震災で14万人、阪神淡路大震災で6,400人。阪神淡路大震災は内陸で発生する活断層型の内陸型地震と呼ばれるもので、M7.2、鉄道・新幹線・高速道路・地下鉄などが損壊し、水道・電気・ガスがストップするなどライフラインに壊滅的な打撃を与えた。被害総額10兆円超。東南海地震は1944年に発生、M7.9、津波による被害が大きい海溝型地震と呼ばれるもので、死者&行方不明者数は1,223人。


 東海地震について


予知の研究が進んでいることから発生前に名前がついているが、このようなケースは大変珍しい。この地域では1854年以降150年間地震がなく、明日起きても不思議はない。1都7県、特に静岡・愛知南部に大きな被害が及ぶ。木造家屋の大部分が倒壊、ライフラインの損壊と復旧の長期化も阪神淡路大震災以上との予想だ。また沿岸地域の津波や液状化の被害も大きいだろう。国の被害予測によれば、死者数は最も被害が大きいとされる冬の明け方に発生した場合で8,300〜1万人、建物の被害は26万〜27万棟(阪神淡路大震災で10万棟)。


 東南海、南海地震について

東南海地震が30年以内に起こる確率は40〜50%とされている。被害予測は、死者数(冬の明け方)2万人、建物被害62万棟、被害総額56兆円。東海地震に比べ、規模も範囲も大きい。東海地震の発生が東南海地震を誘発する可能性もあり、その場合には、被害はさらに甚大なものとなろう。


 地震対策

地震がいつ来るかを完璧に予知することは出来ないが、計器による観測や、GPSにより地殻のひずみ位置を測量するなど技術が進んでいる。予測が出来れば、建物被害の規模は変わらないだろうが、人命は大いに救える。東大の五十嵐助教授は数学的モデルを用いて、東海地震の発生を2004.2年±0.8年と予測。他の数学者も別の手法で解析し、2005年までには発生すると予測している。
 被害が大きいとされる津波対策は堤防を高くするなど対策が進んでいるが、地盤の液状化に対してはまだ対策がわかっていない。国の中央防災会議は、(1)災害軽減のための緊急耐震化対策などの実施、(2)地域における災害対応力の強化、(3)警戒宣言前からの的確な対応、(4)災害発生時における広域的防災体制の確立を柱とした「東海地震対策大綱」を発表している。過去の地震を見て、今後何をすれば企業と人命を守れるかを考え、空港・万博以降は、県も企業も是非こういった対策に力をいれて欲しい。

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【15年7月度産業懇談会(水曜第1G)模様】

 テーマ: 「未来写真システム」

日 時:7月16日(水)12:30〜14:00
場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:24名





スピーカー:

(株)リブネット 代表取締役

馬渕 裕嘉志氏

 http://www.livnet.co.jp
 
家づくり、リフォームには、欠陥住宅・地震対策、資金・税金対策、保障対策など不安がいっぱいある。こうした悩みを解消するために、「リブネット家づくりサポートサービス」を設立した。資金や家づくりのさまざまな要望を整理し、ハウスメーカーや工務店、リフォーム会社の紹介、「住宅性能評価・表示制度」に基づく建物完成までの一連のサービスを提供している。

家づくり・リフォームを行う上で最大の悩みは、「イメージ通りの家が実現できるか?」にある。この問題は住宅業界の永遠のテーマの1つと言える。この問題の解決策として「未来写真」を提示することにより、イメージ通りの家の実現を可能とした。コンピュータグラフィックを駆使した、「未来写真」サポートサービスシステムの実現である。未来写真を有効利用するために、未来の我が家を仮想建設する「リアルスタジオ」を設立、建設会社と施主間の新しいコミュニケーションの世界が実現したことにより圧倒的な集客を得た。

施主のさまざまな注文への対応を通じてリブネットのノウハウも豊富となり、事業内容が拡大。いつでもどこでも完成見学会を可能とし、施主が知りたいことの全てに応える「革命的ソフト」を開発、近々発表する予定。今後ともビジュアル言語で「顧客満足」→「顧客感動」→「顧客創造」をめざし、住まいの過去・現在・未来を全てビジュアルで見せ、「安心」と「夢」を提供していく。

講演後には、当社の「リアルスタジオ名古屋」を訪問し、「未来写真」を実体験した。

 

【15年7月度産業懇談会(水曜第2G)模様】

 テーマ:
「暮らしに役立つインターネット
−インフラになったインターネット〜初級編〜」


日 時:7月9日(水) 12時30分〜14時
場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:22名

 




スピーカー:

(株)TCP 取締役社長

横井亮一氏

 http://www.tcp.co.jp

 インターネットの仕組み

インターネットは、自宅や会社からNTT電話網などを通じて加入しているプロバイダーからインターネット網へ接続し、ホームページを見たり、知り合いにメールを送ったりすることが出来る。


 メールの利点

インターネット上のメールは郵便で言うはがきのような物で、暗号化などの処置がされていない場合は内容が読み取られる可能性がある。安全のため、クレジットカードの番号やパスワードなどは書かない、受信のパスワードは定期的に変更し平易な文字列は使わない。半角カナや機種依存文字(とかなどの文字)は相手が読めない場合があるので使わないようにすること。ネットワークの故障などの原因で、出したメールが相手に届かないことがあるので、必要に応じて電話で確認するなどの対策を講じるようにする。
 また、他人(特に著名人)等の文章を複製して使う場合には著作権に考慮する、長い文章を送る場合はタイトルに(長文)と入れる、チェーンメール(いわゆる「不幸の手紙」のメール版)を送らないなどのモラルも必要だ。


 インターネットで何ができるか


検索サイトを有効利用することにより、見たいWebを探し出し、楽しむことができる。
Webは多岐にわたり、辞書、ショッピングをはじめ、地図・時刻表・乗換え案内、時事ニュースや株価情報など即時性のある情報を簡単に手に入れることが出来る。また、ブロードバンドの普及により、ビデオチャット(テレビ電話)や映像を見ることが出来るようになった。


 インターネットの危険性

情報を読み取られる、ウイルスによってシステムを壊されるなど、インターネット上の危険はあるが、対応次第で防ぐことは可能である。メールアドレスやパスワードの管理、ショッピングなどで情報を送信する時はサイトのセキュリティを必ず確認するなど。また、ウイルスの感染防止のためのセキュリティシステムも欠かせない。要は、家庭でも用心のために玄関に鍵をかけるように、インターネットの世界でも自己責任の意識が重要ということである。

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【15年7月度産業懇談会(木曜G)模様】

 テーマ: 「落語の中の教育」

日 時:7月3日(水)12時30分〜14時
場 所:名古屋観光ホテル18階伊吹の間
参加者:22名


       スピーカー:

落語家 三遊亭圓窓師

 http://www.dab.hi-ho.ne.jp/ensou/

 昭和34年に18歳で噺家になった。まだその頃には、明治生まれの名人や師匠が大勢いたので、そうした師匠たちと楽屋などで接することで、明治や江戸の名残を感じ、落語の時代背景を肌で感じることが出来た。師匠や先輩の世話をしながら、自然に落語を「聞いて」勉強した。ところが最近は、落語を「見ました」と言う若手が出てきた。テレビの影響だろう。落語家は「見る」が、落語は「聞く」と言うのが正しい。なぜ「聞く」なのか。 落語はもともと「落ちを語る」からくる。ストーリーがあって最後に落ちを語るのだ。江戸時代には「おとしばなし」と読み、「はなし」と呼んだ。「はなし」は当然「聞く」ものだ。「らくご」と言うようになったのは明治に入ってからである。

テレビやビデオの普及によって、人々は「見る」ことに慣れ、「話を聞く」ということがおろそかになってきた。それは、日本の教育にも原因があると考えている。日本の勉強は、「読み、書き、そろばん」が中心だが、本当の教育の原点は「話す、聞く、思い描く」だ。本来人間は胎児の時から既に「聞く」ことを始めている。赤ちゃんの耳はもう大人の70%の機能を持ち、3歳までに90%の脳が出来上がっている。子どもの教育は、おなかにいる時から始まっているのだ。日本人は話すのが下手、聞くのが下手、思い描くのが下手だが、「見る」ことばかりに時間を費やしてきたので、人の話をちゃんと聞くことが出来ない。成人式がいい例だ。

落語は、「話す、聞く、思い描く」を必要とする。最近は教科書にも載せているものがあり、私も小学生に授業で聞かせたり、日大で講座を持つなど、生の落語を聞かせることに努めている。最初は戸惑っていた子ども達が、だんだん真剣に聞くようになり、落語の世界に入って思い描くことが出来るようになってきた。もっと話を聞かせてやれば、子どもは自然にちゃんと聞くことが出来るようになるし、思い描くことも出来るようになるのだ。学校の先生自身がそういう教育を受けておらず、ペーパーテストを経て先生になっているためになかなか難しい面もあるが、先生にはいい意味で、良き「芸人」であれと望む。

年寄りが昔話を話して聞かせるということが減ったのも、聞くことが下手になった原因だと思うが、昔話には残酷なストーリーが多い。同じ話芸でも、落語にはそういったことはなく、「ばかばかしいお笑いを・・」に象徴されるような滑稽話が多い。子供たちにも、生の落語を聞かせることを薦めたい。

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【新会員自己紹介】


伊東 賢二


中部冷熱株式会社 取締役社長

【中部冷熱株式会社】 
名古屋市東区東桜二丁目11番16号


この度産業懇談会火曜グループに参加させていただくこととなりました。よろしくお願いします。

 まず、私共の会社を紹介させていただきます。
弊社は、発電用燃料として輸入する液化天然ガス(LNG)の持つマイナス162度Cの冷熱エネルギーを活用して事業を行うために1978年に中部電力が100%出資の子会社として設立した会社です。
具体的な事業としては、弊社と東邦ガス系の冷熱会社、複数の産業ガス会社とが共同出資して設立した中部液酸(株)、知多炭酸(株)の両社にLNG冷熱を供給・販売するとともに、両社の生産する液体酸素・窒素・炭酸ガス、ドライアイス等の製品の一部を引き取り、販売を行っています。
近年の産業ガス市場の動向は、長期にわたる景気低迷の中、オンサイト型PSA化の進展や外資の攻勢を背景とした業界再編成による価格競争の激化などにより、極めて厳しい状況にありますが、幸い、当地域では輸送用機械等の好調を反映し、他地域に比べれば比較的堅調に推移していると言えます。
とはいうものの、将来は楽観を許しませんので、産業ガスの潜在需要の発掘と冷熱を利用した新しい事業の開発とが当面の弊社の大きな課題となっています。

 次に私自身の紹介をさせていただきます。
 私は四二年に亘る中部電力の勤務を終え、本年六月に現職に就任しました。中部電力では後半の二十数年間法務、監査といった今流行の言葉で言えばコンプライアンスに関する職務に従事してきました。
住まいは中央線沿線の高蔵寺ニュータウンにあり、妻となぜだか我が家に居座ってしまった娘と共に生活しています。
 趣味としては別に取り立てて申し上げるほどのものもありませんが、遅く始めた我流の「ゴルフ」、図書館で借りてきた時代小説を片っ端から読む「読書」、妻の手伝いをしているうちに馴染んでしまった「園芸」といったところでしょうか。
 若い頃には山歩きも好きでしたが、今ではその元気もなく、せいぜい近所を歩き回るくらいです。その点、高蔵寺は恵まれていて、ニュータウンの中には木や草花の植えられた公園がたくさんありますし、一歩離れると古くからの集落や里山があり、さらに足を延ばせば東海自然歩道を歩くことも容易にできます。ゴルフの予定の入っていない土曜日曜には、妻と二人で、あるいは一人で、ウォーキングを楽しんでいます。
 このように皆さんと一緒に楽しめるような趣味も少ない上に、酒も煙草もカラオケも嗜みません。
 つきあいにくい男で申し訳ありませんが、ご厚誼を賜りますようよろしくお願いします。

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伊藤 隆


株式会社安部工業所 取締役中部支店長


【株式会社安部工業所】 
TEL:052−563−3851
E-mail:ta.itou@abe-kogyo.co.jp


はじめまして、安部工業所の伊藤隆と申します。昨年の4月に関西経済同友会に入会したのも束の間、10月に名古屋に転勤となり今年の5月に弊社の安部源平会長の紹介で中部経済同友会に入会ならびに産業懇談会水曜第2グループへ参加させて頂く事になりました。少しでも長く活動できるよう努力したいと思います。

弊社は、コンクリートの中にピアノ線を挿入して緊張することにより強いコンクリートができるプレストレストコンクリートを扱っている建設業の会社であり、主に工場における製品から高速道路等の大型橋梁・上下水道用のタンク・建築の柱や梁部材等の設計JIS・施工を行っています。
最近、公共事業に対する風当たりが非常に厳しさを増してきていますが、より良い物を提供し、社会に貢献できるよう新技術・新工法に挑戦しています。最も新しい工法として構造物の補修・補強に工法を開発しています。詳しくは弊社のホームページP-PUTにてご覧頂ければ幸いです。

私は、北海道出身の道産子であります。昭和48年に安部工業所に入社して以来30年がたちました。職歴は設計に25年間携わり岐阜本社勤務が長かったわけでありますが、営業に変わってから東京・大阪・名古屋と立て続けに転勤となり仕事内容・環境等急激に変わり良い刺激を受けています。趣味はゴルフ・ジョギング等、体を動かすことが大好きな人間です。機会があればゴルフコンぺにも参加したいと考えています。
拙い文章で申し訳ありませんが、今後とも皆様方にはお付き合いの程、宜しくお願い致します。

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大西 美知太郎


株式会社NTTマーケティングアクト名古屋 代表取締役社長

【株式会社NTTマーケティングアクト名古屋】 
TEL:052−569−7000
E-mail:oonishi@ngy.nttact.co.jp
URL:http://www.ngy.nttact.com/


 皆さま、はじめまして。このたび中部経済同友会に入会させていただきました株式会社NTTマーケティングアクト名古屋の大西美知太郎と申します。

私どもの会社は、NTT西日本グループの構造改革にともない、2002年5月に西日本で17社あるアクトグループの1社として誕生いたしました。弊社は、愛知県を営業エリアとし、商法上は旧NTTテレメイトの継承会社となっております。
私どもの業務としては、NTTテレメイトから引き継いだ事業と、新たにNTT西日本からアウトソーシングを受けた事業に分かれております。具体的には、「人材派遣」・「テレマーケティング」といった業務や携帯電話販売等の業務に、新たにNTT西日本から委託された電話による各種ご注文受付け業務やネットワーク関連商品の販売業務が加わり、新しい営業会社として再出発したところです。

私事ですが昭和31年生まれで今年47歳になります。家族は妻と、中学1年を筆頭に男の子3人ですが、ただ今家族を前の勤務地の関西に残し単身赴任中です。
東海地方の勤務は、約20年前に三重と名古屋に合わせて3年ほど経験があり、今回が2度目となります。
名古屋の印象ですが、町の規模といい交通の便といい非常に住みやすい所だと思っています。しかし、名古屋の夏の暑さは20年前と少しも変わらず日本一ではないかと思っております。
社員からは、なぜ年中顔が黒いのかとよく質問を受けますが、趣味は、高校時代から始めたスキーを今でも続けております。さすがにもう技術の進歩はありませんが、子供に技術を教えることが楽しみとなっています。

以上簡単でございますが、弊社の紹介と私の自己紹介とさせていただきます。会員の皆様には、お付き合いの程よろしくお願いいたします

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輿石 邦豊


東レ株式会社 名古屋支店長


【東レ株式会社】
名古屋市中村区名駅南1−24−30
TEL:052−583−8200
E-mail:Kunitoyo_Koshiishi@nts.toray.co.jp
URL:http://www.toray.co.jp


会員の皆様、初めまして。東レ株式会社の輿石邦豊と申します。前任者 矢野保の後を継いで5月19日着任、6月19日から産業懇談会木曜グループに参加させて頂いております。

【会社概要】
 1926年人絹糸(レーヨン)の製造を目的として創業した弊社も満77才。期近では繊維比率43%、プラスチック・ケミカル22%、情報通信機材14%、住宅エンジニアリング10%、医療・医薬5%、その他6%が示す様に総合化学会社に変貌しています。
 素材比率が高いのですが人工皮革"エクセーヌ"、人工絹"シルック"、透湿性防水加工衣料"エントラント"、炭素繊維"トレカ"、めがね拭き(最近は洗顔用途として大ヒット)"トレシー"、家庭用浄水器"トレビーノ"などの様に最終消費者に馴染みの深い製品もあります。
 全社長期的展望としては「情報通信」「ライフサイエンス」「環境・安全・アメニティー」の3領域に対応した事業を戦略的に拡大して行きますが、中京地区にあっては自動車関連素材の拡充を中核に「環境対策」「地震対策」をキーワードに、あいくる認定材(リサイクル製品)、機能膜利用浄水装置、湿し水不用印刷版材、構造物補修補強用炭素繊維に焦点を当てて行きたいと考えています。

【私事】
 昭和20年大分県生まれです。輿石の姓発祥は山梨県ですが、私は山梨に住んだことはありません。然し甲府の町を往きますと確かに輿石名をたくさん見かけます。5年間NYに、3年半シアトルとサンディエゴに勤務致しまして、アメリカ郊外の美しさを満喫致しました。名古屋は初めてですが、ゴルフ場の美しさはアメリカ同様です。(料金は桁違いですが…)
 アルバイトをしていたのでスキーが趣味でしたが、入社していつしか極度の高所恐怖症にかかって以来リフトに乗るのが怖く、遊びに行ってもかえってストレスがたまるのでやめてしまいました。今は安くて美味な料理店を探すことが楽しみです。

会員の皆様には今後末永くご交誼の程宜しくお願い申し上げます。

以上

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小林 正明


エヌ・ティ・ティ・シスコム株式会社 代表取締役社長


【エヌ・ティ・ティ・シスコム株式会社】
〒460−0008 
名古屋市中区栄2−8−25(NTT広小路ビル)

TEL:(052)204−4700
E-mail:kobayasi@ntt-syscom.co.jp
URL:http://www.ntt-syscom.co.jp/


みなさまはじめまして。このたびNTT名古屋支店長の笹倉様のご紹介で中部経済同友会に入会させていただきましたエヌ・ティ・ティ・シスコム株式会社の小林正明と申します。産業懇談会はシーキューブの片桐様にお誘いをいただき水曜第2グループに参加させていただくことになりました。よろしくお願いいたします。
社名のシスコムは、SYSTEM&COMMUNICATIONからの造語ですがNTTのグループ会社には珍しくSYSTEMが先にあるところで、コンピュータを使った情報処理を中心にネットワーク化していくという気持ちを込めております。そういいますとITブームに乗っかって起業したように聞こえるかもしれませんが、実は電電公社民営化の年、昭和60年10月に設立しておりますので、NTTグループの中では最も古い会社の一つになっています。
会社の業務内容は、ビジネス系ソフト、通信系ソフト、パッケージソフト等の開発を中心に、最近ではASPによるソフトウエアのサービスにも取り組んでおります。詳しくは弊社ホームページをご覧になっていただけると幸いです。

私は平成9年にNTTを退社し、シスコムの社長としてすでに6年目を迎えています。NTT時代も創設期のデータ通信部門に入り15年ほどシステム設計や、システム開発業務に従事しましたので、結局はコンピュータが天職だったのかなと感じています。

 生まれは三重の松阪で、完全リタイア後は生まれ故郷で土や樹木に戯れて過ごしたいと思い、仕事の合間に野菜つくりや造園技術の習得に励んでいますが、現在は、ゴルフとたまの山歩きやスキー、つん読・らん読の読書と好きな曲の時だけ出かけるクラッシックコンサートなどです。
特に最近はゴルフのプレーでは限界を感じゴルフの歴史に関する本や、ゴルフエッセイ等を愛読しており、中に出てくる逸話の主にそっくりな友人や知人を見つけて一人ニヤニヤするのを密かな楽しみにしています。
 最後に夏坂健氏の「騎士たちの一番ホール」に出てくるウインストン・チャーチル卿の言葉に「パットと政治は酷似する。どちらも想像力と決断力の勝負だが、いずれにせよ、うまくいった試しがない」というのを見つけました。かの大宰相でさえこの心境だったとすると、急速にバブルに上り詰め、崩壊し、長期経済不況に悩む国の歴代宰相の心境やいかに。

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鈴木 泰寛


アイシン開発株式会社 取締役社長


【アイシン開発株式会社】
TEL:0566−27−8701
E-mail:yasuhiro.suzuki@aisin-ad.co.jp
URL:http://www.aisin-ad.co.jp/


会員の皆様はじめまして。この6月に中部経済同友会および産業懇談会(水曜第2グループ)に入会させていただきましたアイシン開発(株)の鈴木泰寛です。

会社概要説明および自己紹介をさせていただきます。
弊社はアイシングループ13社の一社です。1993年に旧アイシン開発(株)、(株)富士工務店、アイシン緑化(株)の異業種3社が合併して設立した会社です。今年の12月で10周年を迎えます。歴史は古く、旧アイシン開発の前身の中外金融は1949年に設立、富士工務店の前身の丸八化学は1954年に設立しております。

事業内容は、土木建設、保険、緑化事業など多彩です。中でも建設土木業界は、ご存知のように公共事業、インフラ需要の終焉とともに永い氷河期に入っているとも言われ、非常に厳しい状況下にあります。まさに疾風に勁草(けいそう)を知る≠ニいう言葉どおり、厳しい風が吹き荒れるとき、強い草の価値がわかります。不況になって初めて企業の真価が問われ、強い会社が生き残るという、たとえです。弊社も勁草のようにどんな逆風が吹いても生き残れるよう企業体質の強化に取り組んでおり、全社員にこの不況をチャンスと捉え、夢や目標をもって果敢に挑戦しよう≠ニ呼びかけ積極経営を心がけております。

経営資源の人、物、金をいかに合理的に活用するかが経営の基本であると思います。特に人≠ノ関しては、人それぞれの能力を大切にして、各自の能力が最大限発揮でき意欲的に働ける環境を提供することが経営者の重要な役割であると認識しています。そして、どんなことでも貪欲に学びたいという気持ちで、人生とはあらゆることを学ぶ舞台でもあると自分に言い聞かせ、座右の銘として江戸時代の儒学者「佐藤一斉」の言葉を大切にしています。 『少(わか)くして学べば、則ち壮にして為すあり、壮にして学べば、則ち老ゆとも衰へず、老いて学べば、則ち死すとも朽ちず』。この言葉を自分なりに次のように解釈しています。

少の時期、すなわち若い時は、体で学び「現地、現物、現認」する。そして苦労を買って出て、大いに失敗する。壮の時期は、その失敗を活かし、できるだけ多くの成功した経験者とのコミュニケーションを通して学び、実践する。老の時期には自我の色が強くなるので原理・原則を学ぶ。
私も昨年5月に還暦を過ぎ年齢では老の域ですから、初心に帰って経営の基本を学び直したいと思います。このような思いで情熱をもって日々研鑽しておりますので、このたび中部経済同友会の諸活動への参加を通して、異業種の皆様方と経営について幅広く学ばせていただくことを大いに期待しております。
今後、よろしくご指導ご鞭撻たまわりますようお願い申しあげます。

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【9月度産業懇談会開催日程】


8月の産業懇談会は休会となっております
9月度の例会につきましては、グループ相互の交流と活性化をいっそう促進するため
昨年同様、4グループ合同での懇親会を開催いたします

日時:
 9月3日(水)18:00〜20:30(17:30受付開始)
場所:
 名古屋観光ホテル(2階 曙の間)TEL:052-231-7711
会費:
 お一人 10,000円 ※当日受付にて頂戴いたします
当日の予定:
 17:30〜 受付開始
 18:00〜19:00 ご講話・演奏会
 19:00〜20:30 懇親会(着席形式)
ご案内先:
 代表幹事および産業懇談会メンバーの皆様
事務局連絡先:

 担当:亀井  TEL:052-221-8901


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【コラム】
「名古屋“水と街道”散歩」No.6

笹倉 信行

 山崎川


一、東山・八事丘陵


 名古屋台地の東部に位置することから「東部丘陵」とも呼ばれる東山・八事丘陵は、名古屋市内でもかなり目立つ程小高く、また広域にわたる山間地である。名古屋は中心部が名古屋台地と呼ばれる平坦な台地であり、また北部から西部にかけては庄内川がもたらした土砂による沖積平野であることから、平らな都市というイメージが強い。そうしたイメージを払拭するような傾斜の強い斜面を随所に持ち、広大な地域をあたかもグリーン・ベルトのようにつなぐ丘陵地帯が東山・八事丘陵である。
 その東山・八事丘陵一帯を源としているのが山崎川である。平和公園から東山動物園・植物園にかけての分水嶺が千種区と名東区の区境になっている。その分水嶺から西側、そして東部丘陵の最も西にある覚王山の山稜までの間が、山崎川の本流の水源地になっている。
 山崎川の上流部一帯は歴史の積み重ねによる古くからの地名・遺構の多い所である。古墳時代の須恵器製作の中心地であったと思えば、中世には織田信長の父信秀が築いた末森城があったり、近世には飯田街道が整備されるとともに八事に興正寺が創建されている。近代に入ってからも覚王山に日泰寺が開かれるとともに名古屋の城下町より寺社・墓地の移転が続いた所でもある。


二、山崎川本流の上流部

 山崎川の本流は、平和公園の中にある猫ヶ洞池周辺から発している。猫ヶ洞池の北東側にユーカリの林があるが、そこを辿ると平和公園の墓地の谷を形作る小さな川が二筋認められる。もっとも普通の時には水量が殆んど無く「水源地」からの「本流」というには気がひける状態である。
 また、猫ヶ洞池の東に今も残る小さな池も猫ヶ洞池に注ぐ小川の一部である。池の周囲には桜の木も多く、春のシーズンともなると花見の客が多勢つめかける。
 それにしても「猫ヶ洞」という地名は変わっている。猫が洞穴にでも居たのかと思われるかもしれないが、もとをただすと「金子(かねこ)」と「洞(ほら)」から出来た地名である。
 この周り一帯は明治時代までは「金児硲(かねこはざま)」と呼ばれたという。金児は金子と同じであり、かつての地名の名残りが今日でも「鹿子(かのこ)」「鹿子殿(かのこでん)」に残っている。
 金子と呼ばれる場所は全国にあり、その多くは鍛治や鋳物師(いもじ)が住んだ場所でもあるという。かつての武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の東部)では、高麗(こま)郡と多摩郡狛江(こまえ)郷に金子という地名があった。それぞれ現在の飯能市金子(JR八高線に金子駅あり)そして調布市及び狛江市にまたがる地域(京王線つつじが丘駅はかつて金子駅と呼ばれていた)である。高麗・狛どちらも朝鮮半島から渡来してきたことを示す地名である。本山と東山公園の間にある「唐山(からやま)」も伽羅(から)(古代朝鮮半島にあった国名。かつて任那と呼ばれた国の一部)に因む名前であり、東山一帯で焼かれた須恵器が朝鮮式土器とも呼ばれたことも含め朝鮮半島からの渡来人の影の濃い地域である。

 現在では「末盛」と表される「末森」も、もとは須恵器の「すえ」より名付けられた。「すえ」は「陶」(堺市・和泉市に古代あった陶邑(すえむら)、「須衛」(各務原市の古代の窯のあった所)とも表わされるが、「末」とつけられることも多く、尾張でも小牧市に上末・下末の地名が残るのもそのためである。
 洞は両側を山で囲まれた比較的浅い谷間を表す地名で、特に現在では岐阜県の地名あるいはその影響で人名も多い。洞戸・大洞・洞口等々である。洞を谷と置き換えれば、よくある地名・人名に変わる。硲は狭間とも書くが、谷間を表しほぼ洞と同じ意味の言葉である。
 猫ヶ洞という地名もいわれを辿ると意味のある名前であることを実感する。そしてこの周辺一帯においては、水量の豊富な猫ヶ洞池が果たしてきた役割の大きさについて様々な事象の中によって知ることができる。江戸時代には山崎川に沿って猫ヶ洞用水が作られ、当時の末森・古井村(千種区)だけでなく伊勝・丸山・川名・御器所村(現在の昭和区一帯)そして前津小林・古渡村(現在の中区南部)の灌漑用に使われたともいわれている。また、二代藩主徳川光友の隠居所の大曽根屋敷(現在の徳川園付近)にもトンネルを掘り水を供給していたことも知られている。明治初期に猫ヶ洞池の豊かな水を利用しようと現在の蝮(まむし)ヶ池(現在の厚生年金会館周辺に大正末期まであった溜池。その下手にあったので池下の地名がある)につなぐためトンネルを掘ったが失敗したという。そのため今でも地下鉄池下駅の東に「堀割(ほりわり)町」の名が残っている。このように、猫ヶ洞池の豊かな水が果たした役割は江戸時代そして近代においても極めて大きかったが、今では名古屋市民の絶好の憩いのスペースとなっている。


三、星ヶ丘・東山周辺

 山崎川には、猫ヶ洞池へ向う本流の東側に大きく二筋の支流がある。
 先ず平和公園の南部には、パラボラアンテナが見える東山無線中継所の西側を水源とする流れがある。新池町のバス停の少し北に駐車場があるが、そこから殆ど手つかずの湿原が広がっている。この周りにはかつて大坂(おさか)池という溜池があったというが、現在では都会の真中にこのような場所があるかと思わせるような自然に満ちた空間となっている。その分遊歩道も余り整備されていないが、歩き出すと珍しい風景に誘われて楽しい散歩になる。この沢は思いの外奥が深くなっているので、周辺の雑木林も含め充実したトレッキングが味わえる。
 新池から平和公園へ向かう大きな道を越えると水の流れは道路の下に入り鹿子町を西進し橋本町で新池から来る流れと合流している。
 新池から来る流れを辿ると星ヶ丘の高台に至る。東山通で最も高い所、従って山崎川と植田川(天白川の支流)の分水嶺になっている所が「打越(うちこし)」である。現在では交差点の名前として残っている。また、星ヶ丘から高針へ向かう名東本通の最高点は「野越(のっこし)峠」と呼ばれていた。
 「打越」は全国に多くある地名で街道の峠を意味する。近くには長久手町も打越があり町名として残っている。「野越」は「乗越」と同じで現在でも北アルプスには随所に乗越のついた場所がある。山の両脇から沢が迫って結果として峠のような通り道になっている場所を指している。自動車で通り過ぎるだけだと、一寸した坂としか見えない所も、昔の人にとっては喘ぎ喘ぎ登りつめた頂点の乗越であったのであろう。

 星ヶ丘一帯の高台からもたらされる水は新池(しんいけ)に流れ込む。新池はかつて七ッ釜池とも呼ばれ、今から想像できない位大きな池であったという。道理で上部が平和公園へ向う道となっている新池の堰堤は、思い外高い。堰堤を潜り抜けた流れは東山通の一本北側の道路を東山通を沿うように西進し本山に向う。この支流に向って東山・唐山方面から幾つもの流れが南から北に向かって流れている。その中でも最も大きいのが東山動物園・植物園からの流れである。動物園に入って直ぐ小さな池があるが、かつて大薮池と呼ばれたこの池もその一部である。その上流部にボートで賑わう大きな池があるが、かつて源蔵池とも呼ばれた上池である。上池からは北東の道路沿いに、そして東側の植物園一帯へも沢が延びている。
 こうして星ヶ丘・東山・唐山等の丘陵地から水を集めるようにして、またかつての大阪池からの流れを合わせて、猫ヶ洞池から来る本流に交わるのが本山交差点から猫洞通を一ブロック北へ行った場所である。現在では駐輪場になっている。本山の交差点を南西に越すとようやく開渠となった山崎川が現れてくる。ここから川沿いの道がスタートし、城山中学校・見付小学校の間を抜けるようにして鏡池通に至り再び暗渠となってしまう。


四、城山周辺

 覚王山と本山のちょうど中間地点に城山がある。現在では城山八幡宮となっているが、戦国時代の末森城の址である。一五四七年(天文十六)織田信長の父 信秀によって築かれ二年後父の死の後は弟 信行の居城として一五五八年(永禄元)まで使われた城である。
 戦国時代はその名の通り戦いに明け暮れた時代なので、この時代に城の数は膨れ上がったという。しかしながら多くは城といっても小高い場所に設けられた館といった所が多く、現在かつての城跡を訪れても本当にこのような場所に城があったのか疑うような所が少なくない。
 末森城址は、戦国期の平山城としての特徴を今だによく伝える貴重な財産である。現在では移転してきた多くの寺社によって寺町のようになっている城山新町から城山町方向へ南に延びる尾根を上手に築城に使った堅固な城である。この尾根は東西にかなり急峻な傾斜を持ち、また城近くではその幅がかなり狭くなる馬の背状態の所もある。そして先端部では中世の城の特徴である空堀を掘り守りを固めている。

このような台地の先端部を利用して作る城のことを平山城(ひらやまじろ)と呼ぶ。台地の崖で防御を図りながら、台地の上部で城館(櫓(やぐら))を構えることの可能な城である。それ以前の高い山中に築く山城(やまじろ)(金華山にある岐阜城等)そしてそれ以降の平地に作られた平城(ひらじろ)(名古屋城等近世の多くの城)と異なる戦国時代の独特な形式の城である。全国にこの時代の平山城の址が数多くあるが、末森城はその中でも群を抜いて元の遺構が明確にわかる優れた城址である。
 南北にわたる城山の尾根を作っているのが、西側の姫池通の下の流れと、東側の愛知学院大学との間に崖に沿うように流れている支流である。
 城山の尾根から何本かの谷が西に向かって走っており、これらの水を集めてかつては三つの池があったという。通りの名になった姫ヶ池は現在の松坂屋ストアの前に昭和四年まであったという。流れを遡って姫池の交差点の北にあるのが、江戸時代には西どろあき池と呼ばれ、明治時代に入り現在の日泰寺が創建されて放生会(ほうじょうえ)に使われたことから放生池と名付けられた池である。しかし現在では埋立てられてしまっている。放生池の東南に東どろあき池があったというがその面影は全く無い。姫ヶ池の支流は姫池通から田代本通へと名前を変えた道路の下を南に進む。
 尾根の東側の流れのルーツは自由ヶ丘二丁目の覚王山霊園の中にある。墓地の谷間からの流れが尾根の東側の崖下を沿うように南進している。この流れと合わさるのがもう一本東側にある支流である。千種台中学校付近からスタートし徳川山町・日和町からの谷を受け止めたこの流れは、愛知学院大学の東側を通って末盛通に至る。途中自由ヶ丘小学校の南側にかつて望来池(もうらい)と呼ばれた池があったといわれ、現在でもその一部が自由ヶ丘調整池となって残っている。末盛通で先程の城山の東の流れと合流し開渠となって南進し、城山中学校の北側に至り、ここで直角に曲り西に向い田代本通で姫ヶ池からの流れと一緒になっている。
 覚王山の参道となっている尾根から、この流れに向けて丘上町・山添町へと急な下りで田代本通へ向う流れと、椙山女学園の付属小学校から高等部・中等部へと向う流れがある。椙山女学園の流れには、かつて二つの池があって二ッ池と呼ばれたという。現在では埋立てられ付属小学校と公園となっているが、その公園は今でも二ッ池公園と呼ばれている。


五、名古屋大学付近

 現在では高速道路も併設されたことからその名が知られた鏡池通は、その名の通り名古屋大学構内にある鏡ヶ池に面した通りである。山手グリーンロードと交わる交差点の直ぐ南西側にあるのが鏡ヶ池である。かつては首利(くびり)池と呼ばれたが、「くびれる」ような地形から「くびり」の名が付いたと言われている。
 鏡ヶ池の上流の谷は名古屋大学の構内をほぼ東西に突き抜けて、最後は東山植物園の山中に至っている。途中には農学部前に別な溜池もあり、広い大学構内の中でかなり長くまた深い谷を形つくっている。
 大学と川とはつきものなのか、少し南の南山大学からも山崎川の支流が流れ出している。大学と山手グリーンロード沿いの神言神学院との間にかなり深い谷があり、初め北に向うもすぐに西に向きを変え松坂屋ストア付近で山花町の通りの下に入っている。この支流に向かって南の川名山町の香積院付近からも細い流れが北進して合流している。


【コラム】
「苗字アラカルト」No 14

H15.7.28 片桐清志

星と苗字

今年も一宮の七夕祭りの季節が巡ってきた。長かったうっとうしい梅雨も明け、いよいよ夏本番だ。夏の夜空の主役は花火だろうが、星空も美しい。足元も大切だが、たまには目を上に向け悠久のロマンに浸るのも気分転換になる。そこで今回は星にスポットを当ててみた。

古来より身近にありながら、苗字との関係は意外と薄い。例えば、「星空」「銀河」「昴」「彦星」「星座」「星雲」「一番星」などありそうだが見当たらない。一字姓の「星」さんはいる。しかし惑星の中では「金星(キンセイ・キンボシ・カネボシ)」と「木星(キボシ・残念ながらモクセイの読みは無い)」だけで、「火星」「水星」「土星」は無い。「大星」「中星(ナカホシ)」はあっても「小星」は無い。色との関係でも「赤星」「青星」ぐらいで緑も黄も無い。「金星」はあっても「銀星」は無い。意外なのは「白星」は無いのに「黒星(クロホシ)」はある。
多少でも天体らしい苗字を拾っても「星光(セイコウ・ホシミツ)」「星名(ホシナ)」「星月(ホシヅキ)」「月星」「星見(ホシミ)」ぐらいだ。ちょっと紛らわしいところでは「星衛(ホシエ)」があるが、「衛星」は無い。

少し見方を変えて、「天」関係で見ても、「天(テン)」「天体(テンタイ)」「天星(アマホシ)」「天道(テンドウ)」「天野川(アマノカワ)」「天川(アマカワ・テンカワ)」がある程度だ。変わったところでは「天命(テンメイ)」「天上(テンジョウ・アマカミ)」「天下(テンカ・アマシタ)」「天国(テンクニ・残念ながらテンゴクとは読まない)」「天皇(アメミヤであってテンノウではない)」だろう。
因みに、「七夕」さんはいて、読み方もちゃんとタナバタとお読みする。

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【15年7月号編集後記】

学校が夏休みになった。子供たちにとっては普段できない体験をたくさん経験できる絶好の機会だ。先日ある会合の関係で「刈谷少年発明クラブ」を見学した。昭和49年から活動を開始し来年は30周年を迎える。豊田佐吉の精神に触れ、子供たちにモノを作る喜びを与えたいとのトヨタグループの支援で誕生した。普段は土・日にオープンしているクラブだが、見学した日は夏休み期間のため平日もオープンしていた。あいにくの梅雨空にも拘わらず、大勢の小中学生が工作に熱中していた。

専門のスタッフは7名だが、愛知教育大の学生やクラブのOBもボランティアで参加しているという。好奇心旺盛な少年時代の経験は物作りの喜びをきっと根付かせるだろう。地域と一体となったこうした活動がモノつくりの風土を醸成していると感じた。
中部経済同友会が支援している名古屋市科学館の発明発見創造クラブもまだスタートしたばかりだが、早くも「ロボカップジュニア」で日本代表に選ばれ世界大会へ出場している。我々が想像するよりも子供の吸収力・成長力は大きい。良い刺激を与える環境が何よりの教材だ。産業懇談会も8月はお休みだ。この期間に普段できない経験をたくさん積みたい。

今月号も各グループの活動状況をたくさん掲載できた。またこの時期の特徴だろうが、新入会員をたくさん迎えることができた。少しでも早く会員相互の理解を深められることを願って、新入会員の紹介も掲載した。ご活用願いたい。

(片桐)