第9号 2003.2.27発行 【巻頭寄稿】 少子高齢化社会への提言 竹田印刷株式会社 ご承知のように、日本は本格的な少子高齢化社会に向かっており、いよいよ2006年には総人口が減少に転じます。こうした傾向は日本だけではなく、西欧諸国におきましてもすでにイタリアやスペインでは総人口が減少しはじめており、その他の国々でも数年以内にピークを迎えます。 日本は縄文時代から現代まで、飢饉や戦争などの特別な時期を除き、人口が減少することはありませんでした。それが、あと3年で史上初の人口減少社会が出現いたします。人口が減るわけですから、当然消費活動も比例して低下いたします。さらに、ほとんどの先進国でも同じ状況ですから、輸出に頼ることも困難です。生産(供給)に比べ消費(需要)が少なくなるということは、必然的にデフレとなるわけで、今後とも厳しい経済状況が続くことを覚悟しておかなければなりません。 しかし、将来を悲観するばかりではなく、歴史上始めての体験となる少子高齢化社会に、どのように対処すべきかを、よく考えることが大切です。デフレ社会におきましては、売上高を上げることよりも、いかに利益を確保するかがポイントとなります。研究開発を積極的におこない、他社がまねのできない高付加価値製品やサービスを生み出さなければ、生き残ることは不可能です。 少子高齢化社会におきましては、高齢者の社会参加が、労働力の確保の点からも、高齢者の生きがいや生活の充実の点からも、重要になってまいります。現代人は50年以上前の人たちに比べ老化具合が7〜8割といわれており、70代の人でも昔の50代の人に匹敵する体力・知力を備えています。これからの日本にとって、高齢者が知識と経験を生かして活躍できる場を、いかに確保するかが最優先課題になると考えます。 15年2月度産業懇談会(火曜G)模様 1.日 時:2月4日(火) 12時30分〜14時 現在、堀川では掃除機のようなものでヘドロを吸い上げているが、ヘドロは取ればよいというものではない。自然界にとっては大事なものでもある。ヘドロの“ヘ”や汚泥の“汚”をどうやって取るか、ということが問題なのだ。 環境問題は、やらなければ仕方ないという義務感でやっているのが今の風潮だが、これでは長続きしない。そこで儲けることができればだれにでも取り組めるのではと思い、どうやったら儲かる仕組みができるのかを考えた。そして、現在お金を払って処理業者に持っていってもらっているゴミを、処理業者に払うお金を元にしてエサをつくることはできないだろうかと考えている。それは、(例えば、排出する生ごみから)エサをつくって、仮に豚を育てて、その豚の肉を排出企業に戻す。つまり、生ゴミに対して払うお金を出したら、豚の肉が戻ってくるという仕組みである。さらに我々は、それぞれの関係業者が出資してひとつの会社にして、このサイクルを工場の中でぐるっと回せるような仕組みにしてはどうかと考えている。しかし、ある程度事業性は見えてきたものの、技術的にはまだまだ問題が多いのが現状だ。 それではどうしたらよいのか。私なりにいろいろ考えた末の結論として、食に関して昔の人の知恵にあった5つの法則をすすめたい。それは「1.危険なものは食べない 2.腹八分目 3.旬のものを食べる 4.地場でとれたものを食べる 5.五穀が大切」というもの。いずれにしても、粗食がよいと思う。また、手間ひまをかけてものをつくるという意味で、ファーストフードに対して、スローフードということもすすめたい。今こそもう一度、先人の知恵を学んで、我々の生き方を見直すべきではないかと感じている。 15年2月度産業懇談会(水曜第2G)模様
1.日 時:2月12日(水) 12時30分〜14時
2.テレビ電話のデモンストレーション 3.ブロードバンドの時代へ
加入数は、昨年末の段階で、ケーブルインターネット(以下、CATV)が約195万。ADSLは500万を超えた。光ファイバーについては約20万で、これは1年前の20倍になっている。現在、世界中で、光ファイバーに20万も加入がある国はない。アメリカはインターネット人口が大変多いが、約半分がCATVを利用している。残りがADSLやダイヤルアップ。光ファイバーは、企業が利用している例はたくさんあるが、家庭で引いている例はない。韓国でもADSLが全盛で、ヨーロッパもほとんどはADSLを利用している。 4.ブロードバンドのこれから
今までは少ないデータ交換だけを想定した社内ネットワークであったが、これからは、動画等をうまく活用した使い方をしていけば、ブロードバンドでインターネットを使うメリットはおおいにある。ただ、ブロードバンド回線は常時接続なので、セキュリティ問題やハッカーの問題等をいろいろな形で考えていかなければならない。今、ブロードバンドインターネット環境はどんどん整備されてきており、ここ数年のうちにますます変わっていくだろう。
3月度産業懇談会開催日程<場所は名古屋観光ホテルです>
【お知らせ】
産業懇談会メールマガジン配信について メールマガジンの配信は無料ですのでが、配信をご希望でない方はお手数でも下記ボタンを押して、メールをご返信いただければ幸いです。ご意見などございましたら、そのメールにお書き下さい。
メールマガジン名称公募のお知らせ 当メールマガジンは、当初水曜第2グループで試験的に始まりましたので、仮称として「SUISUI」(すいすい)でスタートしました。現在全グループの参加が頂けるようになりましたのでこれを機に全懇談会の会員の方から正式な名称を公募いたします。永く親しまれる名前を是非ご提案下さい。 名称応募
[その4:庄内用水(惣兵衛川)]
笹倉 信行
一、 用水と上水 江戸には五川上水・神田上水等上水と名の付く用水が多い。京王線には「桜上水」という駅もあり今日の東京でも用水というより上水という表現が何となく一般的である。 上水と用水の違いは、水を引いた目的の違いから来る。上水は城下の飲用の水を引くためのもので現在で言う水道のことである。従って神田上水がかつて流れていた場所が文京区水道という町名となっている。 それに対して用水は農業用の水を得るための水利施設である。?し農業用の水と言っても単に灌漑用の水というだけでなくて、農民の飲料用の水でもあった。かつて海であった沖積地、そして近世に入って干拓により新田開発した場所などは掘抜井戸に頼れない。掘っても塩気混じりの水しか出てこないからである。 従って江戸においても名古屋においても、農民にとって用水は命をつなぐ重要性をもったものであった。玉川上水の分水として、一六六四年三田・芝周辺への飲料水を送るため作られた三田上水は一七ニニ年一旦廃止になったが、周辺十四ヶ村の猛烈な陳情により二年後に三田用水として復活した。あるいは用水の水利権をめぐるいわゆる「水争い」は全国至る所に、当然名古屋でもあった。用水が農民にとって灌漑用であるとともに飲料用でもあったことを知ると、その切実さがよく解るのではないかと思う。 名古屋に上水と呼ばれるものが少ないのは名古屋台地でも地下水が豊富で堀抜井戸で十分飲料水が賄えたからである。名古屋台地の北側の湧水は北区に清水の町名を残している。かつての精進川の水源地であった場所は東区では泉、御器所台地の西斜面(現在のJR千種駅周辺)には、赤萩(あかはぎ。萩はハケ――水の湧き出す崖)こい古井(昔からの泉の意)等、湧き水に恵まれた土地を示す地名が多い。こうした事から名古屋の城下町は高台にありながらも飲料水の水に困ることは無かったようである。 ただ城下が拡大するにつれ、かつて泥江(ひじえ。泥だらけの入江)と呼ばれた城の西側にも町並みが拡がった。さすがにこの一帯は井戸で対応が出来ず、飲料水用の上水が作られた。巾下(はばした)上水である。ニ代藩主光友の命により一六六三年着工し翌年竣工した巾下上水は現在の西区幅下を始めとする地域に供給された。興味深いのは、この上水の源が城の濠であったことである。現在御深井(おふけ)濠の名で知られる名古屋城の北から西にかけての濠は、湧水によって満たされていた。この湧水を本丸西で取水しその後は地下に木樋を埋設して水道の役割を果たしめたものである。キャッスルホテルへ向かう道路脇にある取水口には、「辰之口水道大樋」という標識が立ちかつての石組みの様子が垣間見える。この大樋があったことからこの一帯が樋の口町と名付けられた。 ニ、自然発生的な用水 日本の三大用水と呼ばれる玉川上水・辰巳用水・箱根用水は江戸時代に作られた極めて大規模な用水という点でお互いによく似ている。玉川上水は大河である多摩川に取水口を設け新宿大木戸(現在の新宿御苑の東端)まで四十三キロメートルにも及ぶ開渠の用水とその後の江戸市中に網の目のように張り巡らした石樋・木樋のネットワークで有名である。辰巳用水は犀川の上流部から取水し約四キロメートルのトンネルと八キロの開渠の用水路で金沢城内に水を引いていた。箱根用水は静岡県東部にある裾野市近在の灌漑用の用水として箱根外輪山の両側より約一.七キロのトンネルを掘って芦ノ湖の水を導いて作った用水であり、いづれも当時としては巨大な工事であった。 こうした大規模な工事が必要な用水に対し、河川の分流の一つを用水に転用する形で比較的早い時代に作られた用水もあり、庄内用水もそうした初期の用水の一つである。庄内用水の至る所に元亀・天正年間に作られたことを示す標示板が立てられている。元亀が一五七〇〜七ニ年、天正が一五七三〜九一年ということから、信長そして秀吉の時代で尾張一国が統一され政情も比較的安定している頃に作られた用水であろうことが想像される。 建設時期が不明ながら金沢で最も古いと言われる鞍月(くらつき)用水も、犀川のかつての流れの一つを用いた農業用水であり、庄内用水が惣兵衛川と呼ばれているように鞍月用水も玄蕃(げんば)川あるいは源兵衛川という別名があった。鞍月用水と本流の間の河原は後に河原町という町になり、道路の片側のみ家が立ち並ぶことから片町と呼ばれ金沢の繁華街へと発展してきた。 東京の多摩川の河道を使ったのが府中用水で、こちらも府中用水と多摩川本流との間に河原の付く地名――分梅(ぶばい)河原・中河原など――が残っている。 三、 庄内用水の歴史 庄内川のもとの流路は明きらかではないが、河道の一部を使った用水であると仮定すれば稲生(西区)で取水し南に向かいかつての江川(庄内用水東井筋)となった流れと、日比津町(中村区)で取水し南へ向かう中井川(庄内用水中井筋)及び南西に向かう稲葉地川(庄内用水西井筋)の二つの流れが別々に作られたのではないかと想像される。 恒久的な取水口(定井)が作られたのは、稲生で一六一四年、日比津で一六四ニ年であったという。ただ庄内川の沖積作用で取水が困難になっていった模様で、日比津の取水口は五年後に廃止され稲生に移設され、その稲生の取水口もその後はほぼ一世紀経った一七四ニ年には水路に流れ込む砂のため水が流れにくくなり、庄内川をかなり遡り川村(守山区)に移された。取水口が庄内川と矢田川の合流点より上流となったことから、庄内用水は矢田川の川の下を水路トンネル(伏越(ふせこし)という)により越すこととなった。 稲生と日比津を結ぶ用水路は日比津の取水口が廃止された時点で開削されたと考えられるが、矢田川を伏越で通り抜けた庄内用水は大幸川(当時は北区志賀町から西区児玉方向、ちょうど西に向けて流れていた)を使って従来の用水路に水を供給した。 一七八四年の大幸川の流路変更(志賀町から堀川に向けて南西に流れるようにした)もあり、一七九ニ年には庄内用水の流路が大きく変わった。矢田川を越える手前で西へ向かい、当時庄内川と矢田川に挟まれた川中と呼ばれていた成願寺・中切・福徳(いづれも北区)の三つの村に新しく水路を開き、福徳と稲生の間に新たに伏越を設けて従来の水路につないだという。矢田川は昭和五年の改修で北側に付け替えられるまで北区安井町から稲生方向に流れていた。またこの時の三つの村を結ぶ水路が、三郷水路として潤いのある美しい散歩道として残っている。 一八七七年、黒川治愿による黒川の開削とそれに伴う矢田川の新しい伏越の建設により上飯田から稲生にかけての水路が新たに設けられ、今日見られる庄内用水の姿になったのである。
〔苗字アラカルト〕 No.9
片桐 清志 『水』あれこれ 当会の笹倉さんから「水物語」を連載して頂いている。そこで当コラムも彼に敬意を表す意味と、当グループの水曜第二に因んで苗字の「水物語」をまとめてみた。 まず珍しい苗字ではズバリ「水」さん。ミズさんとかモトリさんとお読みする。水上(ミナカミ)さんは有名だが、水下(ミズシタ)さん、水中(ミズナカ)さんもいるが、スイジョウとかスイチュウとはお読みしない。日常使う言葉と同じ苗字では水引(ミズヒキ)さん、水草(ミズクサ)さん、水掛(ミズカケ)さん、水漏(ミズモリ)さんなどがいる。水分(ミナワケ)さんや水洗(ミズアライ)さんもいるがスイブンとかスイセンという音読みは無い。もともと苗字は訓読みが基本だが音読みも少なくない。水道さんや水門さんはミズミチ、ミズカドという訓読み以外にスイドウさんやスイモンさんという音読みの方もいる。残念ながら水曜さんは見当たらなかった。 難読の部類では「水流」さんも初めて出くわすとツルとは読めない。水鶏口さんはクイナグチでよい。「水主」さんの読み方はミズヌシ、スイシュ、モンドのほかに名古屋市内の地名にもあるカコやヌバカコなど合計14とおりもある。水留さんもミズトメのほかにツツミ、水部さんもミズベのほかにモトリ、ニゴオリなどがある。こうなると名簿や名刺にフリガナをお願いしたい。 これほど難読でなくとも苗字の読み方は複数あるものが多い。簡単な表記の場合はフリガナもないためお呼びする際まごつくことが多い。水口さんなどはその代表だろう。最近では名刺にもメールアドレスが記載されていることが多く、フリガナの代わりをしてくれることが多い。 編集後記 今月から各グループの懇談会が再開した。スピーカの方の話題が興味深いものが多いお陰で、昨年のこの時期に比べ参加者が増えたことは喜ばしい。世話人の一人として会員の期待に応えられるよう内容の更なる充実に心がけたい。 またこのメルマガが会員の交流促進にも役立つよう編集等にも工夫せねばと新年度を間近に気を引き締めているところだ。 会員からのご意見、ご指導をお願いしたい。 (片桐) |