第3号 2002.8.27発行 産業懇談会メールマガジン配信について メールマガジンの配信は無料ですのでが、配信をご希望でない方はお手数でも下記ボタンを押して、メールをご返信いただければ幸いです。ご意見などございましたら、そのメールにお書き下さい。 8月は例会が休会のため懇談会模様のお知らせはございません。 産業懇談会 4グループ合同懇親会のお知らせ 9月度の例会につきましては4グループ合同の開催となります。今回は、丸菱工業の河村社長のご紹介により坂上二郎氏をお招きしてトークショーを開催いたします。坂上氏には、懇親会にもご出席いただくことになっており、大いにお楽しみいただける会になるものと存じます。ぜひともお誘いあわせの上、奮ってご参加いただきますようお願い申し上げます。
メールマガジン名称公募のお知らせ 当メールマガジンは、当初水曜第2グループで試験的に始まりましたので、仮称として「SUISUI」(すいすい)でスタートしました。先月号から各グループの参加が頂けるようになりましたのでこれを機に全懇談会の会員の方から正式な名称を公募いたします。永く親しまれる名前を是非ご提案下さい。 名称応募
2002年夏
酷暑の夏もやっと秋めいてきました。暑かった2002年夏をもう一度だけ思い出して
笹倉信行 (名古屋の地形) 名古屋は三つの大きく異なる地形の地域に分かれる。中央部には「名古屋台地」と呼ばれる広い台地があり、東部には「東部丘陵」と呼ばれるなだらかな丘陵地が広がり、西部には河川がもたらした土砂が作り上げた沖積平野が展開している。 名古屋台地は、W字型というか、あるいは歯の形というか真中の所が低く切れ込み、両側の台地が南に向かう程絞り込まれるような形をしている。 西側の台地は、名古屋城を北辺とし金山周辺に至る「那古野台地」と金山から熱田までの細長い半島状の「熱田台地」に分かれる。那古野台地は本町通りを最高部とし東西に緩やかに傾斜している。 東部の台地は、北の「御器所台地」と南の「瑞穂台地」に分かれる。御器所台地は覚王山の北側では北西に傾斜しているのを除くと全般的に西に非常に緩やかに傾いている。瑞穂台地は幾つかの開析谷(台地に切れ込んだ谷)を除けばなだらかな台地である。東西の台地に囲まれた低地が「精進川低地」である。今や新堀川にとって代わられた川である精進川にちなんだ名前である。東西の台地との接点に形作られた崖線は湧水の源になった。特に御器所台地の千種駅周辺の崖線は湧水が豊富だったことから「赤萩(あかはぎ)」(ハケ・・・湧水の豊富な崖線)「古井(こい)」(古くからの泉)の地名を残している。 瑞穂台地の南には、山崎川を隔てて「笠寺台地」がある。鎌倉時代には周囲を海(阿由知潟・鳴海潟)に囲まれた島であったことから「松巨嶋(まつこじま)」と呼ばれていた。 御器所台地の北側には矢田川をはさんで「守山台地」がある。1767年(明和四年)の矢田川の氾濫により矢田川の流路が北側に変わり守山台地の先端部である木ヶ崎が台地から切り離された。 (台地と地名) 台地に特徴的な地名は「上野」である。台地の高台全体を上野というケースが多く、東京では本郷台地の高台のことを「上野」、下の低地部を「下谷(したや)」と呼ばれていた。 名古屋台地の「上野」は御器所台地の北側に「鍋屋上野」として残っている。 戦国時代から江戸時代にかけて尾張の鋳物師(いもじ)を支配した水野太郎左衛門の一族が住んでいたことから「鍋屋」の名を加え、鍋屋上野と呼んでいる。台地先端部の岬状の地形は「崎」と呼ばれることが多い。東京の本郷台地の最南部は「三崎」と呼ばれ品川の北側の台地は「大崎」と呼ばれている。名古屋には、先述した守山台地の先端部である「木ヶ崎」、笠寺台地の北側の「山崎」南側の「星崎」がある。また那古野台地の西側に小河川によって作られた岬状の場所に「洲崎」(天王崎とも呼ばれる)がある。 (沖積平野と地名:海関連) 河川による沖積作用による海岸線の変化だけでなく、地球全体の温暖化・寒冷化により海面の高さも劇的に変化してきたことから海岸線は時代により大きく変化してきた。 縄文時代以降(これまでの1万2千年の間)で最も海面が高かったのは縄文前期(約6500年前)のいわゆる「縄文海進」と呼ばれた時期である。海面は今より4mとも5mとも高かったと言われている。 その頃の名古屋台地は台地の形がそのまま海岸線になっていた。名古屋城本丸にも縄文時代の貝塚があり、現在の金城学院中学校にも長久寺貝塚と呼ばれる貝塚があった。この長久寺貝塚が湾の最奥部に作られた貝塚でこの付近がかつての海岸線であったことを示している。名鉄瀬戸電の清水駅東200mの周り、ちょうど金城学院中学校の崖下に「船附公園」があるのも、かつて船着場があった名残であるという。 縄文時代の後期・晩期、そして弥生時代にかけて若干の変動はあるものの徐々に寒冷化が進み、海面は低下していった。名古屋台地の西側に現れた泥地全体が「泥江(ひじえ)」と呼ばれた。ひじ(土や泥)でできた入江状の土地といった意味であろうか。現在の日比津町ももとは泥津(ひじつ)がなまって日比(ひび)津になったという。 入江状の場所には江とついた地名が多い。泥江以外にも藤江町・畑江通(中村区)、荒江町・北江町(中川区)、福江(昭和区)、中江(南区)などがある。 こうした平野部でも少し小高い所があると「島」の付いた地名となる。名古屋駅周辺には笹島・牛島・亀島・中島そして庄内川には枇杷島の名が残っている。 東京にも牛島(浅草から見て向島とも呼ばれる)大島、湯島あるいは芝(島の意)、柴又(嶋俣と江戸期までは表記された)等の島の付いた地名がある。 (沖積平野と地名:河川関連) 河川はしばしば氾濫し、あとに堆積物を残す。流れをなぞるように堆積物が続いている地形を「自然堤防」と言うが、川沿いの集落に適した場所として早くから開けてきた。こうした自然堤防の地を「曽根」と呼ぶが、名古屋では、矢田川が作った大規模な自然堤防である「大曽根」や天白川の支流扇川には鳴海付近に「曽根」の地名がある。水の都である大垣市には「貝曽根町」「中曽根町」「横曽根町」があり大阪市の「曽根崎」は芝居「曽根崎心中」で全国的に知られている。 川沿いの中州状の場所は洲(須)あるいは須賀という名が付いた地名となる。五条川沿いには「清洲町」(かつては清須)があり、中区には「大須」がある。大須は長良川沿いにあった大須(現在の羽島市桑原町大須)が大須観音で知られる真福寺の移転に伴い町名も移ってきた地名である。中川区の「中須町」は庄内川沿いにあり、揖斐川沿いには岐阜県の海津町に「高須」、三重県の多度町に「中須」という地名がある。 須賀の付いた地名としては中村区に「高須賀町」が烏森近くにあり、中川区には庄内川と新川に囲まれて「富田町長須賀」があり、そしてその北には大治町の「鎌須賀」がある。周囲に目を展げて見ると美和町に「蜂須賀」、羽島市に「正木町須賀」岐阜県平田町に「須賀」等 須賀の名のある地名はこの地域に数多くある。 東京周辺では横須賀市はあるものの須賀が付く地名は少なく、また日本橋中洲(中央区)、鉄砲洲(中央区の旧町名、現在の明石町)鮫洲(品川区の旧町名、現在の東大井)等、洲を使う地名はあっても須の付いた所は見当らない。 (「田」のつく地名) 人名に「田」の字の付く人が多いのと同様、地名にも「田」の字が付いた。特に後に田が付いた名前が多く見られる。 東京でも名古屋でも台地の周縁部、いわば台地の下に田の付く地名がある。東京では律令制の郷名(郡の下の単位)になったものだけでも神田郷(豊嶋郡)、桜田郷(荏原郡)、三田郷(荏原郡)があり、名古屋でも東西の台地の先端部に「井戸田」「熱田」がある。また名古屋台地の北側一帯、矢田川との間には「矢田」「山田」「飯田」が連なる。いわば台地の崖の湧水をもととした稲作地である「ハケ田」であった場所のように想像される。 稲作は初期のハケ田での耕作から本格的な土木工事によって河川の水をコントロールする稲作へと変化してきた。それにより沖積平野に広大な稲田が設けられそれに由来する地名が河川沿いに残った。 先述の矢田・山田・飯田も矢田川沿いにあるが、天白川沿いに「植田」「島田」(天白区)があり、庄内川沿いには「八田」「野田」「前田」(中川区)がある。 江戸時代までにあった以上のような田の付く地名以外にも、近代になって街区の急激な膨張により多くの地名が新しく作られた中にも桜田町(熱田区)、丸田町・元田町・藪田町(中区の旧町名、現在の千代田)等のように田が付く名前も数多くあった。これらの地名が、いずれも精進川低地に設けられたように、田の付く土地の多くはかつて稲田であったような場所であるというのも、新しい地名でも「地名は地形を表す」という一般的なルールに沿っているように思えて面白いものである。 (参考) 詳細をご覧になりたい方は笹倉さんのホームページ「早桜風土記」 〔苗字アラカルト〕 No.3 片桐 清志
『中部』あれこれ
当会(中部経済同友会)のネーミングに使われている中部と苗字の関係はどうなのだろう。
編集後記 夏休み後だが関係者のご協力で何とか第3号をお届けできる。グループ別の会合はお休みだが水曜第2グループの笹倉さんから名古屋の水物語「水と街道」を投稿いただいた。氏の博学に驚くと同時に身近な事柄も研究次第で生き生きとしてくることを教えられる。今後も連載していただけるとのことで楽しみだ。 9月4日にはグループ相互の交流を促進する意味で合同懇談会が予定されている。今回は火曜グループが企画を担当される。木曜グループ世話人の河村社長のお骨折りで坂上二郎さんのトークショーが計画されている。大いに期待したい。(片桐) |