1. 会社紹介
成田製作所は、1938年、名古屋市熱田区(熱田神宮側)に創業した。鉄道車両を繋ぐホロ(幌)のイメージが強いかもしれないが、製品売上構成は鉄道部品(ホロ)よりも自動2輪(オートバイ)向け部品の方が、今では高くなっている。2008年度の売上高は、不況の影響により対前年比で大きく落ち込んだが、67億円であった。従業員は267名で、市内の2工場のほか、豊川市御津町にメイン工場となる御津工場がある。
それでは、成田製作所について、製品紹介とともに70年の「あゆみ」を説明させていただきたい。
2. 創立〜昭和33年
会社は昭和13年、私の祖父である成田林(なりたはやし)が設立。当初はドアを繋ぐ蝶番からスタートした。元々、蝶番は鍛造されたものを機械加工していたため、大量生産できなかった。ここをプレス化することで、量産化が可能となり、品質の安定、コスト低減につながった。この技術が当社の基礎を築いた。その後、エアタンク、飲料タンクなどのタンク類の製造を始めたが、太平洋戦争が始まると経営の苦しい時期が続いた。
戦後になり、鉄道事業の発展とともに鉄道車両関係の注文が入るようになった。最初は車両にある「竹製の吊り手」の製造からはじまった。そして、昭和21年になり、「ホロの製造をしないか」との声がかかり、ここから「ホロの成田」がスタートした。当時は一両に2個のホロをつけて、真ん中で結合させていた。雨合羽の材料を補整してホロを作っていたため、耐久性や、見栄えは良いものではなかった。そして、昭和24年、国鉄(現JR)が発足すると、電車のなかに設置する通風器、寝台車用の折りたたみ式洗面器、扉の引戸錠や窓錠などの商品を製造するようになった。また、新たなホロの製造にも取り組み、昭和29年に、今でも名古屋の地下鉄や名鉄電車でも使われている連鎖式(成田式)ホロを開発した。ホロは通常、布と骨で構成されているが中央部分が重力で下がらないよう、骨の間に斜めに骨を入れたものが連鎖式ホロである。この頃になると、素材もポリ塩化ビニルになり、カラーバリエーションが増え、耐久性が高まった。
また、ホロ以外にもアルミ製品の受注も増えていった。今なお、アルミ溶接が得意なことは、この時代の技術伝承によるものである。
3. 昭和33年〜
30年代半ばから0系(初代)新幹線の開発が始まり、国鉄と協力して新幹線用のホロ開発を行った。これがきっかけで今でも新幹線のホロは当社で100%受注している。さらに、車両が連結すると自働に扉が開き、ホロが接合される自動開閉ホロを開発し、成田エクスプレスに採用された。
また、この頃は鉄道車両で培った技術を活かし、トラックのデッキなど、自動車部品も製造するようになった。
4.昭和53年〜
50年代に入ると、鉄道車両、自動車部品に加え、二輪車部品を製造するようになった。当時、アルミ溶接、板金を得意にしていたこともあり、オートバイメーカーからオールアルミのフレーム部分の製作を任された。当社には「溶接がうまい」「その歪みを整えるのがうまい」といった技術者が数多くいたが、そのものづくりは鉄道中心であったため、量産化技術がなかった。このため、この受注を通じてお客さまの指導の基で量産化技術を確立することができた。
変わったところでは、車両の仕事がないときのために、ペット用の犬猫病院向けのケージを製造、販売した。ところが、ステンレスで錆もなく長持ちするため、販売が一巡すると、販売がなくなってしまうなど、いい製品をつくりすぎたと思っている。
また、海外へも事業展開していたため、海外技術者の指導をする研修も活発に行ったのもこの頃であった。
5.平成元年〜
鉄道車両や自動(二輪)車の部品製造に加えて、最近では冷凍、冷蔵コンテナやディズニーランドに設置してある身障者の方が利用するユニバーサルシートなどへも製品展開している。また、バス、電車や看板広告でお馴染みのラッピング事業、「NAVICOM(ナリタ・ビジュアル・コミュニケーション・グループ)」もスタートさせた。これは、鉄道車両の側パネルや内装パネルをつくるのにかなりのポリ塩化ビニルの化粧シートを使っていたため、この技術を活かして住友スリーエムと共同で市場開拓を目指して始めたものである。
当社は、経営理念「客先要望を親和と創造で完遂」、行動指針「無限の可能性に挑戦」とともに、その実現を目指して取り組んでいる。私は3代目なので、私自身が築いた実績はないかもしれない。しかし、車両を繋ぐホロの製造を一生懸命がんばっていくなかで、私は「人と人との繋がり」「技術と人との繋がり」が一番大切だと思っている。これからも皆さんとの繋がりを大切にして、いろいろなことを教えていただいて、頑張っていきたい。
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